ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

誰がどう調べても「一本の道」|ヴィパッサナー瞑想の心は無色透明(後編)

気づくことで心がきれいになるのは何故?|ヴィパッサナー瞑想の心は無色透明(前編) から続きます)

そういう自分がカッコいいと思うとか、それすらもないんです。善いことをやっているんだという気持ちすらないんです。無色透明。それが本当の清らかな心です。それが瞬間で生まれます、ヴィパッサナー瞑想で確認作業をすると。

 

だからきれいな心が生まれるしか、他に選択肢がありません。「もしかしてきれいな心が生まれるかも」じゃなくて、「確実にきれいになる」んです。

 

電気のスイッチを切ったら、消えるんです。そういうふうに思考を瞬間でも止めたら、その瞬間は心はきれいです。それを続けて訓練していきます。そうすると心は、汚れない状態になってしまいます。それをわれわれは悟りの境地というんです。もうこれからは汚れません。それには、智慧というものが現れてくるんです。知恵が現れたら汚れがないんです。

 

智慧も無色透明です。知識とは違います。知識は溜まれば溜まるほど、人生は重くなります。生きづらくなります。知識はいくら学んでも学んでも、忘れちゃいます。ややこしいんです。

 

犬猫なんか、あれほど気持ちよく生活している。何の知識もないから。ちょっとエサを上げただけで喜んじゃうし。われわれはそうじゃない。

人間は知識があるからややこしい。知識は智慧ではありません。智慧は重くないものなんですね。何か入るものじゃないんです。智慧は無色透明なんです。智慧は知識に使えます。

 

こういうことです。

われわれはいっぱい学んでいても、何か問題が起きたら、どうすればいいか分からないんですね。それで今まで学んだもので、考えて考えて考えて考えて、結論を出しますけど、その時は時間が過ぎ去っているんです。もう遅いんです。

 

自分の家が火事になったら、知識で、原因を究明して「こうすればよかった」と物の見事に分かるんです。しかし遅いんです。火事になっちゃいました。次に作る家では、火事にならないように作るとするでしょう。別な原因でまた火事になる。そうすると、それもスタディするんです。その繰り返しをどこまでやるのかと。

 

そうやって知識は、人を助けてくれません。智慧っていうのは、問題が起きようとすると、「あ、こうすればいいんだ」とその瞬間で閃いてくるんです。だから前もって準備したら困るんです。

 

われわれもときどき使います。

階段を降りるときは、落ちたら困りますから手すりを使いましょうとは、誰も思わない。手すりを使わないで降りる人でも、ちょっと滑りそうになった瞬間で手すりを持ちます。正しい答えです。しかし考えていないんです。

車が来ても、計算しません。車がこのスピードで来て、わたしはこのスピードで歩いているから、ぶつからないためには左へ10センチ曲がって……、とか計算していません。ただ歩いているだけ。それでものの見事に車にぶつからないように身を守ります。

 

子供たちがボール遊びをしている。ボールをキャッチしますね。なんのことなく、キャッチします。全然考えていません。こういうふうに思考がない場合はわれわれはいつでも正解を出しています。

 

それはそんなにすごい智慧ではないんだけど、一応、智慧が現れる前兆というか破片は持っています。

 

そこで知識をストップすることができたら、智慧が完成されています。その人には心配は消えています。あれが不安、これが不安、はなくなっちゃいます。その瞬間でやっちゃいます。解決する。

 

そういうことで、智慧が現れたら心は完全に清らかになります。心が清らかになる方法はこれしかないんです。

 

いろいろと本にありますよ、「人を助けましょう」「社会福祉活動をしましょう」とか、どこまでやれば心がきれいになりますかね。「朝早く起きましょう」とかね。「みんなに挨拶しましょう」とかね。

 

それは世の中の決まり事だけであって、心を清らかにすることにはそれほど影響がないんです。

だからヴィパッサナー瞑想が心を清らかにする唯一の方法なんです。きれいになるしか、ほかに結果が出ないんです。なぜならば、思考で汚れる。それが確実だったら、思考をとめれば汚れないというのが答えなんです。

そういうすごいシンプルなプログラムなんです。

すごいシンプル。

 

「“わたしが”怒っている」と確認したら、それは思考です。そうではなくて、「怒り」という感情ですからね。「怒り“がある”」の“がある”もいりません。「怒り、怒り、怒り……」と確認する。そう確認しただけで、怒りがどこかに行きます。どこに行ったかは分からないんですね。

理由は、「怒り」を生み出した思考が消えちゃったんです。「なんであの人がこんなことを言ったのか」という思考をストップさせたから、怒りが消えちゃったんです。原因がなくなったんです。

 

このカラクリ、因果法則ですね、それで心がきれいになります。これは物の見事に、本物の清らかさになるんです。

だから、どこまでやるのか、ということはないんですね、この瞑想の場合。

世間の道徳は完成できません。人を助けることで自我のない人間になろうと思っても、完成できません。自分の能力範囲で終わってしまいます。

その場合でも助けられる人の反応によって、心がきれいになるどころか汚れてしまう可能性もあります。助けられた人々が自分のことを褒めたたえたら、どんどん気分がよくなって傲慢になってしまう。あるいは、助けてあげているのにそれほど反応がない場合は、「なんだこの人、ここまでやってあげてるのに」と怒りが込み上げて来て、元も子もなくなっちゃいます。

 

そういうことで、人助けはいいことですが、問題があるんです。完成できない。

だから唯一、この確認する作業しかないんです。

 

これをお釈迦様は、「一本の道」と説かれています。これしかないと。

 お釈迦様が説かれたからではなくても、誰がどう調べても、これしかないんです。

(終わり)

 

関西定例瞑想会 2009.06.21

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/887244.html よりメモしました。

f:id:thierrybuddhist:20150613233024j:plain

外部関連エントリ:http://www.j-theravada.net/howa/howa126.html (後半部より)

功徳を積む場合は、布施をする、奉仕をする、病人の看病をする、ボランティアをするなどの行為がいくらでもあります。しかし、人助けも無限に無量にできるものではありません。人間の能力もリミットがあります。

この場合も、自分の心を清らかにすることが、功徳の中で最高の功徳なのです。怒り憎しみのない心を育てる。精神的に混乱することを止めて、落ち着いている。慈悲の気持ちを育てる。冥想実践をする。などの行為には、リミットがありません。完全なる解脱を経験するところまで心を育てることができるのです。

福祉活動だけを謳っている宗教もありますが、信仰を重んじる彼らにとって、心を育てることは重大な問題ではありません。また、福祉活動は伝道活動にもなるので、福祉を受ける人々に余計な精神的負担もかかるのです。

仏教は、福祉活動だけを善行為としてハイライトしていません。なぜならば、人は無限に無量に善行為をしなくてはいけないのです。それなら、自分の心を育てることこそが答えなのです。人の一切の行いは心の支配によって行うので、心さえきれいであれば、全ての行為は善行為になってしまうのです。

すべての「説法めも」を読むには:【目次】説法めも