ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

気づくことで心がきれいになるのは何故?|ヴィパッサナー瞑想の心は無色透明(前編)

質問

ヴィパッサナー瞑想で、気づくことを繰り返すと、人の心はきれいになると本で読みました。気づくことを繰り返すことで、どうしてそういう風に心がきれいになっていくのですか? 」 

 

回答(スマナサーラ長老) 

それは、「なんで心は汚れているのか」を先に考えましょう。

 

なんで、怒るのか? 欲があるのか? 心配するのか? 興奮するのか? 神経質になるのか? なんで、人は人を殺すのか? 戦争が起こるのか? 

 

例えば、原子爆弾を作っちゃいけないなら、なんで北朝鮮原子爆弾を作るのか? そんなことをやると大変でしょう、自分の国が。そんなお金や能力があったら、人々が豊かになるようにした方がいいとわたしは思います。そんな爆弾を作るより、北朝鮮は韓国よりもはるかに経済的に発展すればいいでしょうに。

なんで飢えているのにミサイルを作るんですか? 国の人々は飢えているのに、一人の人間が国の財産を独占しているんですか?

 

だからわれわれは、なんで心が汚れているのかを、まず見るんです。見てみると、あほなことを考えているんです。物事を正しく見ていないんです。自我がありすぎなんです。「オレだけ良ければいい」と思っていながら自己破壊を繰り返しているんです。

いつでも自分にとって良かれと思ってしていることで、自分も周りも不幸になる生き方をしているんです。

 

その元になっている衝動は自分の心なんですね。明らかにそれが汚れているんです。

 

そこで、「どこ精密に見て、どこで汚れるのか?」を調べるんです。顕微鏡で見るんです、心を。

そうすると、「欲、自我、傲慢」と見えますけど、なんで傲慢になるのか? 自我を張ったか? 欲張ったか? とまた顕微鏡の倍率を上げて見るんです。

そうすると見えてくるんです。「何か考えていた」と。思考した。それで、自我が現れたんです。

 

たとえば人がしゃべったら、わたしにとっては、ただ「音」だけなんですよ

人が喉から音を出しているんです。わたしには耳があってその音を認識している。聴覚が生まれているだけ。別にどうったことないんです。

 

しかしわたしが、その音を解析するんです。「こういうことを言っている、こういうことを言っている、こういうことを言っている」と。「声がでっかすぎ。それから乱暴。わたしに対して侮辱している。そんなことを言われる筋合いはないんだ」と自分が思考すると、ものすごく怒りがこみあげてくるんです。でしょ? 

ただ音だけなら怒りが湧かないでしょ?

 

そういうことで、心が汚れます。そこは科学的で、心理学的なんです。

 

たとえば、あなたの体に誰かが触ると、どんな反応をする? 

自分の子供が触ったなら何のこともないんです。子供は自分の体にぶら下がったりしているのに、自分は平気で、なにか子供がいないように自分のことをするはずなんです。

しかし電車の中で誰かが触ったら? 子供が触れたなら、ただ「なに?」というだけなのに、他人が触ったら状況が変わってきます。

 

ただ何か物体が触れただけでしょう。なんでそこまで差が生まれるんですか?

電車で男性が女性に触れたら、もしかして警察沙汰になるかもしれません。

 

そこで、あの人が悪いとかこの人が悪いとか、そういうのは置いておいて、心の中でどんな機能が起きたのかと見るんです。

そこで「思考」というものが出てくるんです。

 

思考というものは何なのかというと、ほとんど過去の出来事と、将来に起こるだろうと妄想する出来事なんです。

その思考が恐ろしく頭の中で回転するんです。だから汚れるわ、汚れるわ。

現在でも思考すると心が汚れるんです。

誰かが電車の中で体を触ったと、それは現在の現実なんです。それでも思考すると心が汚れてしまうんです。

 

それが心を汚す原因です。それをストップするんです。それだけ。

 

質問者「そういう汚れが出た時に、自分が『汚れてはいけない』と思う必要も一切ないんですか?」

 

んー、まぁ、それは時と場合によるんですけど、たとえば、怒りが出て来たら「怒り」があると気づくと怒りが消えてしまいます。

 

質問者「確認するだけで、自分で解釈しない方がいい?」

 

解釈しない、解釈しない。「怒りがある」と確認して、それでストップするんだから。マシンのスイッチを切ればいいんです。

 

質問者「切れば、自然に……」

 

その状態がきれいな状態なんです。きれいな状態は無色透明なんです。

すがすがしい気持ちのほか何もないんです。「きれいな色はどんな色?」じゃないんです。どんな色も、結局は、きれいじゃないんです。

たとえば無色透明のガラスがあって、そこにどんな色の絵具を塗ればきれいかというと、塗らない状態が一番きれいなんです。きれいな心は無色透明です。

 

ヴィパッサナー瞑想で確認していくと、心は無色透明になるんです。それが本物の心の状態です。

 

普通は怒る場面で怒らないでいると、自分がいい人間だという気分になります。

たとえば、旦那さんが不倫したのに、奥さんが「まあ、いいや」と放っておく。それで毎日普通に対応して、家事も頑張る。そうすると自分自身が「結構できた奥さんだ」と思うし、周りも「あんたすごいねぇ」と褒めたりもする。そうするとなんか気分がよくなるかもしれません。それは当然きれいな心ですけど、色がついています。

 

そういう自分がカッコいいと思うとか、それすらもないんです。善いことをやっているんだという気持ちすらないんです。無色透明。それが本当の清らかな心です。それが瞬間で生まれます、ヴィパッサナー瞑想で確認作業をすると。

 

だからきれいな心が生まれるしか、他に選択肢がありません。「もしかしてきれいな心が生まれるかも」じゃなくて、「確実にきれいになる」んです。

 

電気のスイッチを切ったら、消えるんです。そういうふうに思考を瞬間でも止めたら、その瞬間は心はきれいです。それを続けて訓練していきます。そうすると心は、汚れない状態になってしまいます。それをわれわれは悟りの境地というんです。もうこれからは汚れません。それには、智慧というものが現れてくるんです。智慧が現れたら汚れがないんです。

誰がどう調べても「一本の道」|ヴィパッサナー瞑想の心は無色透明(後編)に続きます)  

 

関西定例瞑想会 2009.06.21

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/887244.html よりメモしました。

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関連エントリ:考え癖があって瞑想できません

それはわかりやすい、癖ですね。癖だからすぐに直らないかもしれませんけど、サッサと断ち切らなくてはいけませんね。

余計な思考・妄想が割り込んじゃうと……。自分を見てください。自分が苦しんですね。なんで意図的に苦しむんですかね? 

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