ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

座る冥想のとき足が痛いです

質問

「座る冥想をしていて足が痛くなって、しばらく我慢しますが、それでも足が壊れそうなくらい痛いんですけど、それってどういうものなんでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

痛みというのは肉体で感じるものですから量があるんですよ。

痛みとは、養老先生が言ったように、脳が作る現象で、体には痛みがないかもしれませんけど、脳が痛みとして判断する。

 

わたしたちには小指でどれくらい荷物を上げられるか? 薬指でどれくらいか? 中指では? だいたい決まっているでしょう。手でどれくらいの重さの荷物を上げられるかと、そのようにリミットがあるんです。

命の場合は、このendurance(耐久性)リミットは超えないんです。

 

それで足が痛くなっても、endurance limit (耐えられる限界)は超えられません。超える場合は、外からの働きかけがないと。上から大きい石がドカーンと落ちてきて足が壊れるということはあり得る。これは外の原因です。骨が折れる場合も、外からの原因で折れます。

 

命の場合は、この endurance limit は超えられないんです。そのリミットの中でいつも起きるんです。耐えられるリミットを越えた、ということは死んだということです。はっきりしています。

 

それがわかるのは、心臓発作ですね。心臓発作は、耐えられる痛みだったら大丈夫です。治療して直ります。耐えられるリミットを越えたら、その瞬間に死んでいます。復活できません。

 

がんになっても、体には迷惑。すぐに死なないんですね。がんは一応、体の一部なんですけど、寄生植物みたいな感じで成長するからね。体に関係なく自分が成長するんです。それで、endurance limitを越えちゃうんです。それで死にます。

 

だから医者にはそれを計算して教えられますね。どんなタイプのがんが、どんなスピードで成長するものかと。それだったら、ここらへんで終わりでしょう、と。

いつでも人が死ぬ原因は、endurance limitを越えたときです。

 

他の病気でも同じですね。病気って、外からくるものなんですね。医学的な病気っていうのはね、仏教的な病気は別ですけど。

 

それで体で対応する。対応できる範囲では死なないんです。対応できなくなったら、そこでもう、死んでしまいます。

 

この性格を理解したほうがいい。

冥想中に起こるでどんな痛みでも、耐えられる程度で止まります。

なのに、わたしたちというのは、ちょっと我慢できなくなって、足を変えたりする。

そこに何が見えるのかというと、痛みに対する自分のアプローチなんです。

 

だから、わずかな痛みで足を変える人もいるし、相当痛くなったところで足を変えるひともいる。

それはその人の痛みにどんなアプローチをするかということです。

 

たとえば、リンゴを食べると、人は「このリンゴおいしいな」と決めたりする。「あれはあんまりおいしくない」とか。「わたしはこの種類が好きですよ」とか。そういうことで、どの程度の甘さで自分が満足するのか。

 

自分が期待するほどの糖度がないリンゴは、捨てたりしますね。

 

それはこころのアプローチですね。リンゴなら何種類あってもリンゴはリンゴです。どのリンゴであっても食べればいいんです。中身の成分は一緒ですから。こころのアプローチで、それが変わります。

 

痛みというのはそういうことで、死ぬほどの痛みはあらわれませんし、どんな痛みでも、耐えられる状態です。

病気とかの場合は、きっつい痛みが生まれてくるんですが、そのときは、そちらに力を入れるために、自動的にほかの機能は低下します。他の機能は低下させて、痛いところにエネルギーを入れて、なんとか治療しようとはします。

 

みんな自然にやっています。

例えば、足に何か弱みがあって、医学的に膝が曲がらないとか。膝がこのように曲がったら関節が痛くなるんだと分かっている人は、そういう座り方をしません。病気に対する配慮をするんです。

命の法則というのはそう言うものです。

 

 

関西月例冥想会 2015.09.21

https://www.youtube.com/watch?v=R7k8_Fvqueg

 1:16:00~最後よりメモしました。

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