ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

慈悲の冥想――初歩からサマーディ、そして完了まで

質問

「慈悲の冥想の冥想対象について質問します。

生きとし生けるものが幸せでありますように、というのは具体的にどのようにイメージしたらよいでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

これは当然出てくる問題です。

われわれには認識できる範囲と言うものがあります。

たとえば「親しい生命」というと、家族が思い浮かぶように認識できる範囲と言うものがあるんですね。

 

慈悲の冥想には、この認識できる範囲を修行して広げる目的があります。

お釈迦様が慈悲の冥想をおっしゃったのは、一般的に生命に優しいという程度ではないんです。かなり別なことを考えていました。

われわれの認識する範囲を拡大しましょうと。

これは仏教でしか語れない。現代科学ではすごく狭い範囲の認識ですから。眼、耳、鼻だけで認識するだけで、それが世界だと。しかし、眼に見えない光があるんだと現在では知られているでしょう。われわれは光の中でもほんのわずかなものしか見えない。音の中でもわずかなものしか聞こえない。象さんには別な音の世界がある。

 

それぞれの認識にはリミットがかかっているんですね。

これはよく見ると、象さんたちはものすごく低音で会話しているみたいですね。象さんのことはすごく大きいんですよ。しかしわれわれには、象が鳴いたと聞こえるだけです。が、象はよくしゃべっています、お互いに。鳥たちをみてもうるさいほどしゃべる。

 

ですから、認識範囲と言う言葉をよく理解してください。

人間には人間の限られた世界しか認識できないし、象さんには限られた世界しか認識できません。

 

犬はドアを開けて入りますが、ドアを閉めることはいくら頑張っても不可能なんです。

そうやってどんな生命にも、リミットが、制限があります。

 

慈悲の冥想の場合は、リミットを破って拡大すること、こころをね。

お釈迦様の単語で、アッパマンニャーと言う言葉がありましてね。意味は、リミットがない、ということ。無制限。

慈悲の冥想はアッパマンニャーの冥想というんですね。リミットを破る冥想。

認識次元を破る冥想なんです。

 

そこで、どこまで破れるのかと各人がやらなければわからないし、とにかく慈悲の冥想をしたほうがいいんですね。生命を慈しんだ方が正しい生き方です。これはもう、異論がたちません。生命はお互いに心配しあって助け合って生きるべきです。

 

なんでわれわれ生命はお互いに憎しみ合っているかと言うと、この制限の問題なんです。

われわれ人間が、家にゴキブリが入ると嫌な気持ちになっちゃって、ゴキブリを殺そうとする。なぜならばわたしたちは人間という狭い範囲しか物事を考えない。道徳もその範囲で決めている。だから人間の道徳では、ゴキブリは殺すべきで放っておいてはダメですという、人間の勝手な道徳でしょう。なんでこんな考え方が出てくるのかと言うと、犬や猫と同じく、われわれも狭い範囲で生きているからです。

 

ですから人間が作る道徳が正しいわけではありません。

道徳はお釈迦様がおっしゃったものが道徳なんです。

 

これは、自分の宗教こそ正しいといっていると勘違いするかもしれませんが、そうではなく、次元を破った人が道徳を語るのだという意味です。

 

慈悲の冥想をすることが、道徳を守ることになるし、戒律を守ることになるし、全部守ってくれます。

お釈迦様が戒律を実践する代わりに慈悲喜捨を実践しなさいとおっしゃっていることもあります。戒律はしきたりがいっぱいあるから知らないうちに破ってしまうこともあるし、戒律がうまく守れないならば、その人は慈悲喜捨を実践しなさいと。慈悲喜捨を実践することが戒律を守ることであり、道徳を守ることです。

 

リミットの問題に戻ります。

親しい生命というと、リミットが見えてくるんですね。しかし、自分の命を助けてくれる生命はそれだけですかね。自分の命を支えてくれる生命はみな親しい生命です。そこまで拡大してみて。家族だけにしないで。家族だけの助けで生きている?

 

親しい生命と言ったら、そのイメージを拡大して、拡大してみる。

自分の体の中でも、どれくらいの生命がいるんですかね。

他の生命の助けがなければ生きていけないでしょう。

ヨーグルトを食べるとき、味噌汁を食べるとき、どれくらいの生命がそれを作ってくれるために協力したんですか。

土の中に微生物がなければ野菜が作れますかね。米が作れますかね。

 

ですから、われわれは「親しい生命が~」というところで頑張ったほうがいいと思います。

そこを拡大してみる。

そうすると、知らないうちに自分のこころが拡大していきます。

 

それから、「生きとし生けるものが」というのはすごく難しいんです。 

サマーディが作れない場合もあります。サマーディを作る場合は、いろいろ工夫するんです。サマーディを作ろうと思っちゃうと。

なぜならば、一切生命を対象にできない。われわれのこころはそこまで強くないんです。拡大してもしても、ここまでと言うリミットが見えてくる。でも、その人は問題がないんです。その人は、無限にこころが拡大できるんだということを知っている。しかし、自分のこころの力がここまでで拡大のリミットにたどり着きますよと。

これは難しいところで、わたしは一度もこのポイントをしゃべってないんですけど。

 

拡大できる範囲が、人によって大きい範囲、小さい範囲ということが出てくるかもしれませんが、理想的に無制限に拡大しなくてはいけないということにする。

 

またもう一つやり方があります。拡大する場合は。

それはどちらかというと、実践しやすいと思います。

 

自分中心にやる。自分を拡大する。

それはこういうこと。わたしが幸せでありますように、というのはいたって簡単ですね。素直に自分が幸せな人間になってみると。それから親しい生命も幸福であってほしいという素直に思う人間になりますと、自分を広げる。家族に限らず親しい生命が、幸せであってほしいと思う人間になってみる。言葉をちょっとその場合は変えなくてはいけない。「親しい生命が幸せでありますようにと素直に思える人間になります」と言葉を変えてみてください。「親しい生命にも悩み苦しみがないようにと素直に思える人間になります」というと、自分の人格が拡大する。最後に、「すべての生命が幸福でありますようにと素直に思える人間になります」これで、こころが拡大しています、その場合は。

 

それで結果として、自分という殻が破れるんです。

 

すると見つかる問題があるんです。

「自分がいる」ということです。

 

自分という殻がなくなったら終わりだと、それで慈悲の冥想は完了です。

(終わり)

 

スマナサーラ長老 法話と実践会(ゴータミー精舎)2017.09.10

 を聞いて書きました。

Twitter法話

http://twilog.org/jtba_talk/date-170910/asc

 

2017年のカティナ衣法要は終了しました。

2018年は日本テーラワーダ仏教協会でカティナ衣法要は行われません。

 

カティナ衣法要のお布施リストを、Amazonで個人的に作成しました。

http://amzn.to/2hCYpiF

上の写真のようなサンダルなどを、法要に出席のお坊さまにお布施します。

このお布施リストは10月22日(日)まで掲載します。カティナ衣法要は10月29日(日)にゴータミー精舎で行われます。

https://www.facebook.com/events/277192622685514/

 

参考:

お布施で破る次元 - お布施ってどういうこと?(2) - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

ブッダの教えに従って「お布施とは何なのか?」と理解しましょう。 

わたしたち各生命が、自我で、自分の存在しか考えられないんです。

自分が生きていきたいんです。人に親切にするのは、「わたしを助けてくれるならば」ですよ。