質問「慈悲の瞑想の中に、『私の嫌いな人、嫌っている人も幸せでありますように』という箇所があるが、自分には理解できないのですが?」
答えのポイントまとめ
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シミュレーションで「嫌いな人」を想像しない
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現実の自分にとって誰が「嫌いな人」かを挙げる
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その「嫌いな人」の嫌な部分は「個性だ」と認識する
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慈悲の瞑想は人格を向上させる
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人格が向上すると、何か被害を受けても、こころの安らぎまでは持って行かれない
2014年9月14日(日)法話と実践会よりメモしました。
動画:http://www.ustream.tv/recorded/52643301
回答:シミュレーションするからです。それは妄想です。現実をみてください。
泥棒に入られたことはありますか? ないですね。シミュレーションしないで現実的に見ると、そんな大きい問題にはならない。テロリスト、大量破壊兵器を作っている人々、世の中には色々な不安要素がある。それを考えると安らぎが無いでしょ。
そうじゃなくて、現実的に生きてみる。世の中にはテロリスト、犯罪者がたくさんいる。そのことを考えると嫌な気持ちになる。じゃあ日本はじっさいにどうですか? 平和でしょ。現実をみましょう。
私、「田中」に対して嫌な人は誰ですか? と考えてください。
嫌な人と思っても、嫌な人は実際みんな身近な人々なんです。
追い出すわけにはいかない。嫌な人っていうのは変なんですね。嫌な人はあなたに親しい人なんです。例えば家族とかを、「うるさい、嫌だ」と思ったり。でも誰だって個性がある。
その個性が合わないだけ。身近にいるから、個性がぶつかる。夫婦もそうです。
それぞれの個性があります。合うところ合わないところ。だけど、それは許してあげる。こんなふうに、嫌いな人をはっきりと具体的に出してみると解決する。
シミュレーションでは成り立たないんです。
自分の子供を殺された人がいます。それでもその人は加害者を心配する。自分が子供を殺されて、あまりにも悲しみをかんじたんだから、そのような悲しみを加害者の親に感じさせてはいけない。
自分が加害者を憎むと、その親もひどい悲しみに陥ってしまう。そういう風に思考すると、被害者の自分もすくわれる。
ときどきそういう人格者がいます。
みなさんも慈悲の瞑想によって素晴らしい人格者になれますよ。
万が一被害を受けても心の安らぎは失われない。お金を持って行かれても「まあいいや」と。心の安らぎまでは持って行かれないんです。(おわり)