ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

「生きとし生けるもの」が、もし亡くなってたら?【慈悲の瞑想】

質問

慈悲の瞑想は、死者にはしないということで、一方、回向は死者にします。

厳密に考えて、生きとし生けるものの中に知っている人をイメージで入れたとしますね。その人がもし死んでいたら、と考えると、わたしが生きていると思っている人が幸せでありますように、と言うの厳密ではないかと思うのですが、それでいいでしょうか」

 

 回答(スマナサーラ長老)

 

そんなに複雑に考えなくても大丈夫です。「生きとし生けるもの」といえば、生命はすべて生きているでしょう。

「○○さんは」というとわれわれの狭い思考で、概念であって、それは生きているとどうか分からないんです。「生きとし生けるものは」というと、堂々と、生命がいつだって生きているんです。死んでもまたどこかで生まれ変わりますから、生きているんです。

 

「生きとし生けるものが幸せでありますように」というフレーズはいつでも充実したフレーズで空(から)にならないんです。

 

慈しみがどういうものであるか経験してもらうために「わたしが幸せでありますように」とかね、「親しい人が幸せでありますように」と言うんです。

それで経験して「こういう感じか」と、そのあと、一切の生命へ、というふうにいかなければいかないんですね。

 

質問者「今思い出したんですけど、『嫌いな人』で、昔嫌いだった人が、今は生きているかどうか分からないと思うんですけど」

 

そのときは、生きているということにした方が「入る」んですね。

その場合は、あなたはご自分の過去の思いで、嫌いと思っている、嫌だと思っている。その人が嫌い、ではないんです。「わたしに怒りが生まれている」と、そのとき、「これは怒りの気持ちだ。慈しみじゃないんだ」と自分を観なくてはいけません。

「その人」じゃないんです。

 

たとえば、学生の時いじめらたことを、突然瞑想中思い出しちゃってね。「嫌いな人も幸せでありますように」と言ってもうまく行かないんですね。

自分の記憶力で、何か現れて来て、その怒りの塊で、「これは気持ち悪い。わたしの心が汚れているんだ。これは過去の思いでだ」と過去は存在しないと、そこは処分しなくちゃいけないんです。

 

慈悲の気持ちが壊れた、汚れた、とね。

 

いろんな人のことを思い出しちゃうと、感情が波を作るんだから、その時その「人」は関係ないんです。

自分が何か過去のことを思い出しちゃって、自分自身で自作自演をやっているんですね。それは自分で処理する。

 

その人が生きているかどうか関係ないんです。その人に関係ない。自分が問題なんです。

 

だから「嫌いな人、嫌っている人」というと、具体的に、最近・毎日、付き合っている関係で十分だと思います。はっきり知っている人びとね。それ以上さかもぼっていはいけないんです。二十年以上前に嫌いな人、と言うのはダメです(笑)

 

毎日、一緒にご飯食べたり仕事したり、その中に居るんですよ、嫌いな人も嫌っている人も。

 

その人々が幸福でありますように、とすると、自分で頭の中を替えなくちゃいけなくなっちゃうんです。それで正しい慈しみになります。

具体的でなければいけません。決して過去に行ってはいけません。

 

そういうことで、死者に慈悲の瞑想をしないというのは当たり前の話で、「死んだ」と確認することで怒りが湧いてくるんです。悲しみというのは怒りなんです。心が汚れるんです。

それは写真見て、「この写真が幸せでありますように」というような感じなんですね。だから、死んだっているのはある形が終わっただけで、その形に慈悲をしないんです。生命に慈悲をするんです。

 

生命とは、淡々と心が、機能しているんです。回向の場合は、それは明確に、死者に回向するんです。

 

その場合は間違わないんです。「死んだ」というのは覚悟していて、「あの世にいる」生命に回向するんだから。それはその通りなんです。

 

お母さんに回向する。お母さんが亡くなったんだから回向するんであって、生きているならご飯をあげる。

回向する場合は、先祖供養の場合ですね。誰にしても同じことですが、生きている場合も回向できますよ。一応、仏教文化では、そういう習慣がありますから。亡くなった人々に供養する。その場合は死んだことは事実だから、回向する。

 

それは有効なやり方なんです。

ポイントは、自分が与えた回向が届くかどうかなんですね。自分の回向した功徳を亡くなったお母さんがいただくかどうかと言うのは、管轄外なんです。

 

われわれに知りようがないでしょう。わたしたちはわたしたちの義務を果たす。知りようがないものをガチャガチャいうのは間違いです。

それは経典では解決してありますけど、あるバラモンが、バラモンの文化でもハチャメチャ供養しなくちゃあかんですね、死者に。ややこしい儀礼をやって、金かかるわ時間かかるわ、すごい大変なんです。

 

このバラモン人はどこかでいうと、ブッダの教えは信じているし認めているし、バラモン人だから、自分の家のしきたりもちゃんとやっているし。

日本のお坊さんたちもヴィパッサナー瞑想をやっているし、自分のお寺のしきたりもやりながら、という感じです。

 

このバラモンがお釈迦様に、「先祖供養するんだけど、本当にそれが届くのかい?」と。そしたら、「受けられる環境で生まれているならば、受けますよ」と。

「では受けられなかったら?」

「それは先祖供養であげるんだから、自分が狙った先祖に行かなかったら、別の先祖に行くんだよ」

次の順番でね。

たとえば両親や祖父母に供養する。順番で、自分の思いだから、一番思い入れの強い順に行く。そこをもって、先祖供養します、と供養したら、その人たちに受けられる権利があったら受けます。しかし、その権利がないところに生まれていたら、次の先祖に功徳が入るんだと。

二番目の先祖が受けられなかったら? だったら、次に行きますよ、と。

三番目の先祖も受けられなかったら? 次に行きますよ。

 

お釈迦様は同じ質問を三回以上言わせないんです。時間がもったいない。

「四番目に……」といったら、「あのね、バラモン。輪廻っていうのは、無始なる輪廻があるんだよ。だから数えられないほどの先祖がいる。回向したら必ず誰か受けますから、いい加減にしなさい」と質問をカットしたんです。

 

自分のお母さんに行かないかもしれませんが、誰かには届く。回向した行為は無駄にならない。

と言って、その経典はそこで終了するんです。そうでなければきりがない。

つまり、無限に先祖が回向を待っているんです。だから仏教は、そこはいとも簡単に、すべての亡くなられた先祖に回向します。ということで、オールラウンドで回向するんです。問題はそれで解決。

 

でも、わたしも回向するときは、頭浮かぶのは自分の師匠とかですね。そこをきっかけにして回向します。それで親とか次に出て来て、あまり仏教的ではないけれど人間だから、亡くなった師匠とか、義理があるんだからね。でも考えてみれば、師匠は餓鬼道に堕ちているわけじゃないし(笑) 

 

だから、自分の近い親戚のことを思い出しますけど、そこをふんばって、「すべての先祖がこの功徳で幸福になりますように」と言わなくちゃあかんです。

 

(関西月例冥想会 2015.3.8

https://www.youtube.com/watch?v=RYXeW3eH01w 32:40~49:20よりメモしました)

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「体感する」。悟りもひとつの「体感」なんです。「苦・無常・無我」という真理は体感するものです。

体感することで、今までなかった脳のプログラムを作る。脳が新しいシナプスを作ってワイヤリングするんだと。

そういう風に頑張った方が結果が早い。お釈迦様がおっしゃった幸福は目の前で実現します。

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