質問「瞑想は『今』に気づくことですが、それは瞑想だけではないのでは。瞑想のことを知らなくても瞑想している状態になるのではないですか? (例えばイチロー選手)」
答えのポイントまとめ
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確かに、一般社会にもヴィパッサナー瞑想と同じような境地はある
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でもそれは、「自分の仕事を失敗無くやろうとする集中力」、そこまで止まりである
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集中力をつけて成功したい、が、それを邪魔するのは「自我」つまり自分自身だ
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そこで「自我とは何か?」を調べる。その方法が瞑想である
2014年9月14日(日)スマナサーラ長老法話と実践会よりメモしました。
動画:http://www.ustream.tv/recorded/52643301
回答:確かに、一般の世界でヴィパッサナーの世界に似たようなものを経験しています。
たとえば、電車の運転手です。確認しながら、言葉を発しながら運転している。言葉で確認することによって、仕事は失敗無くできる。
スポーツをする人は多いですが、一流のスポーツ選手はほんの一握りです。もともとの才能と、そのスポーツしかしていないというくらい時間を費やしています。
イチロー選手にとって、記録を作ることは頭にないはずです。ただ自分の仕事を失敗無くやるだけ。
私たちはみな、自分の仕事をしっかりやりたい、失敗したくない。一般世界の考え方はそこまでです。
ヴィパッサナー瞑想という方法では、さらに次元を破って、破って、進めます。
イチロー選手が試合の前に二日酔いでできる? 遊び人でできる? できませんね。自分の仕事を失敗無くこなそうとすると、自然と、性格も整ってきます。
学校の教師も同じです。その瞬間のことに集中すると、全体が見えてくる。教室の子供たちは教師の話を聞いているか、聞く気持ちを持っているか、が見えてきます。この集中力で物事をよく知ることができます。
教師の頭がちょっとでも混乱すると、言っていることも混乱してくる。聞いている人も混乱します。
一方で、世の中では、殴られても気づかないような状態を集中力と呼んだりする。ブッダの言う集中力は違う。全体を把握できる集中力です。
それには「今に気づく方法」しかない。一番のネックは自我です。今に気づいているとき、邪魔をするのは「自我」、自分自身なんです。
音楽家が素晴らしい演奏をしようとしているときに、「客があんまり理解していないなぁ」とおもうとアウト。
「私」と言う気持ちが入った途端、壊れる。そこでこの「私」とは何かと調べる。すると、私たちがダメになる錯覚であると発覚する。
すべては、「私」というものはない、ただ瞬間瞬間だけの現象を「私」といっているんだと発見する。
つまり「私」というのは幻想です。蜃気楼のようなもの。蜃気楼はたしかにあります。虹もある。確かにあるが、ある条件によって一時的に表れるものでしょう。
次の日に、蜃気楼を、虹を、持って行けない。そういうふうに、存在とは何かと発見するまで、瞑想ではやっていく。
イチローさんはそこまではやらない。その差なんです。一般世界と瞑想の世界の違いは。(おわり)