質問「不放逸とはどういうことですか? 一生懸命という意味でいいですか?」
回答(スマナサーラ長老)
一生懸命と言う意味ではないです。
不放逸に相当する日本語はほかにありません。お釈迦様独特の専門用語で、インド語でも他の言葉に置き換えられません。
例えば、自分の国の言語も古いインド言語のひとつですから、パーリ語、サンスクリット語にすごく近いし、だから不放逸はパーリ語でアッパマーダ(appamâda)というんですね。それがシンハラ語になっているんです。アッパラマーデという。シンハラ語でサンスクリット語の単語を使うんです。仏教用語としてではなく日常語として使っています。
シンハラ語でアッパラマーデと言う意味は、「You are late」という意味なんです。遅い、という意味なんです。だから、現代シンハラ語では、アッパラマーデするな、というのは、遅くなるな、早くしなさい、という意味です。
例えば、待ち合わせで「待たせるな」というときも、「アッパラマーデ」なんです。
と言うわけで、仏教国でもお釈迦様の言った意味で使っていません。しかし、元の意味からちょっと逸れているだけ。一生懸命頑張るというのとは、なんの縁もないんです。
仏教の意味から説明します。お釈迦様の意味では、「私たちの生きるというのは、『今の瞬間』だけしかない」ということです。過去の瞬間はもう終わっちゃったんです。未来はどうなるか分からない。その訓練をヴィパッサナー瞑想としてやっています。
「今の『瞬間』を見なさい」と。そうすると生きると言うことはとても単純なことだと見えてくる。それで、こんなことに執着するのか、と執着まで消えてしまいます。それは、今の瞬間に気づくと言うことが必要ですね。
今の瞬間に気づいている人が、「不放逸」です。ほかみんな、放逸です。いくら一生懸命仕事をしたとしても「放逸」なんです。
だから「不放逸」はヴィパッサナー作業を実践するときのみ成り立ちます。
そこからいろいろ脱線して、スリランカでは「時間に遅れるな」という意味になっちゃったんですね。「待たせた」ということは「放逸した」ということです。これはちょっと逸れすぎかもしれませんね。
日本も同じで、一生懸命やればいいやと言うことになっているんだけど、これも逸れている意味ですけど、要するに、今の瞬間でやるべきことをやっちゃえ、後回しにするなよ、と言うところから来るんですよ。
仕事を一生懸命やったからと言ってどうと言うことはないでしょう。それは欲の世界でしょう。自分のためにならないでしょう、長期的、最終的に。短期的には役に立ちますけど。
だって仕事は死ぬまでやるものじゃないんだから。仕事の能力は年取ると衰えるでしょ。仕事できなくなるでしょう。本当に大切なものは、死ぬまで役に立つのですね。
そういうわけで、仕事を一生懸命頑張ることが不放逸であるとすると、他のことを一生懸命頑張らないでしょ。または、朝から晩まで一生懸命仕事を頑張らなくちゃいけなくなってしまいます。それは恐ろしすぎて、朝から晩まで一生懸命って言葉自体がおっかないでしょ。人にストレスを与えます。
だから、「やるべきことを後回しにするな、あとで苦しいから」と、ストレスを開放する方向で言わなくてはいけません。
「今やるべきことをやる。ほかのことは気にしないことにする」と、リラックスした精神で生きることが俗世間的な不放逸なんです。
そんなに一生懸命やる必要あるんでしょうか? やっていることはくだらないことばっかりで。
「一生懸命」というのは、怠けるからその言葉が現れたんですね。みんなさぼっちゃうんですね。日本人だけでなく人類の問題なんですね。
例えばオリンピックに選ばれて、一生懸命やるのは当たり前でしょ? やるべきことを今やるのは当たり前でしょう。一生懸命やろうと思うからオリンピック選手もストレスがかかっちゃうんです。そうすると能力が伸びない。緊張する、悔しくなる。
ですから、一生懸命と言う言葉は捨てて、やるべきことを今やりましょう。後回しにしたらとんでもなく苦しくなってしまいます。ご飯を食べてすぐ皿を洗えば楽でしょう。後で洗いますとすると、次の日まで残っちゃって。古いものはものすごく固くなってしまって、洗うのが大変なんですよ。洗剤もたくさん必要になる。洗剤というのは(環境にとって)毒の一種です。すぐに洗えば洗剤も少なくて済む。
そういうことで、今やることをすごくリラックスして、楽しくやることなんですよ。不放逸の俗世間バージョンは。
それを瞑想に使えば、究極的にリラックスできます。
β関西活動報告 : '13 9/23 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎
Youtube上で1:07:30~1:22:00頃よりメモしました。