質問「解脱したお釈迦様が、その後も冥想したのはなぜですか?」
回答(スマナサーラ長老)
その質問は、曹洞宗の一部のお坊さんたちが、明確に間違えであると知っているくせに、言っていることです。
勘違いしないでほしいのは、何かを得ることが解脱ではないんですね。法則的に。捨てることなんです。究極に捨てる。
捨てて捨てて、捨てて捨てて、捨てて、最終的に「得る」ことはしない。それが解脱なんです。
なぜならば得たものはまた捨てなくちゃあかんだからね。
お金捨てて弁当を買ったんだけど、弁当を食べなくちゃいけないんですね。
得たものは捨てなくちゃいけない。面倒くさいんだから、捨てて得ないことにする。それが解脱なんです。それは一日にできるもんじゃないんです。段階的に成長していかなくてはいけない。
それで、その方々が言っていることは正しいんです。
解脱に達してやるぞ、というふうに冥想しても、あんた何やっているのか。自我でしょうに。執着でしょう。ということを、美しい考案で、美しい禅物語で語っているんですね。
ある禅僧にお師匠さんが「あんた何をやっているのか?」と聞いた。
「わたしは解脱に達したくて冥想しています」
それで師匠は、一生懸命瓦を磨きだした。
「師匠、何をやっているのですか?」
「これを一生懸命磨いて、鏡にしようかなと」
「おかしいです。それは鏡になりません」
「そうだよ」
これで弟子が師匠の言わんとすることをわかったかどうか。
「『わたしが』解脱に達したい」この「わたしが」が問題なんです。
そういう言葉で言えない真理の世界を、こういう物語で語っていたんです。
わたしにも散々聞かれてきたんですね。聞かれるたびにおかしくてね。
「わたしたちは解脱に達したくて座禅を組んでいるわけじゃないんだ。悟後のさとりだ」と。
ただの凡夫が足を組んで座っても、お釈迦様が座っていたようになるんですかね。
釈尊が覚ってから、ただひたすら座っていたんだと。得るものは何もないんだから。
「その座禅をやっているんだ」というのは、何を言っているんだこの人はと。そのまねができるのか。
記録されている昔の禅師たちがやったのかと。
禅は大事な教えですよ。しかし、料理方法を知らないんです。
丸々のフグを買ってきたんだけど、自分が料理方法を知らない。ちょっとでも包丁さばきを間違ったら毒が回りますから。
そこを分かっている方々はそこまで派手には言わない。一方的に批判もできませんからね。
しかし、学者みたいな顔をして言っている人々には、断言的に言わなくてはいけないんですよ。
なぜならば、若者はそう言う人々の教えを学んでいくから、道を間違っちゃうんですね。
お釈迦様は説法したり人としゃべったり、社会の状況を考えたり、面倒くさいんですね。それを終わったら、無の世界に、捨てた涅槃の境地に達しているんです。
たとえば人が、かなり高価な絵画を買う。
すごく苦労して手に入れた。有名な絵画を買ったとしましょう。お金をあちらこちらから借りて、オークションで調べて、とにかく絵画を買う。買って、自分の家にその絵画を置く。それを眺めて「あーいいなあ」と楽しむでしょう。もう、「なんとか自分のものにしなくちゃ」「オークションでとにかく手に入れなくちゃ」というのはないんです。とっくに自分のものだから。見て楽しめばいいんです。
解脱、涅槃が、お釈迦様にとってはとっくに自分のものになっているんだから、暇があったらその安らぎの境地に達しているんです。
お釈迦様の覚ってからの冥想はそんなもんなんです。それは涅槃の安らぎを感じるという言葉で言っています。
ときどきお釈迦様が歳を取って体の調子が悪くなったときはハッキリ言っているんですよ。「ものすごく苦しいんだ。体が弱くて痛くて」
いくつか体の病気がありましたからね。腰がすぐ悪くなるし、腸も弱かったし。激しい苦行をしたからね。それから無智な人々に説法もしなくてはいけないし。
「やっと私が楽になるのは、禅定に入っているときだけだ」
そのときの禅定は一切何もない、涅槃ということに入っているんですね。その場合は、何一つも存在しない世界なんです。
そういうことで、あの絵画を楽しむような感じなんですね。
日本の仏教で言っているのは、悟後のさとりを坐禅で組んでいるんだぞとかね。絵画を買っていないのに、絵画を楽しもうとしているんです。それはどうぞ頑張ってくださいということになります。
わたしも、そういうえらい方々と結構議論したことはありましたけどね。わたしはいとも簡単に、これは矛盾でしょうと。
質問への答えは、買い求めて手に入れた絵画を楽しむような感じで、お釈迦様は安らぎの境地に達するんです。煩悩をなくすためにサマーディに入っていたわけじゃないんです。
煩悩がある人にとっては、まだまだ、捨てていく道があります。
捨てて、捨てて、捨てて、捨てまくるんですよ。捨てても何か得ている、捨てても何か得ている。仕方がないんです。たとえばグラスの中の水を捨てる。捨てたらグラスの中に何か入っちゃうでしょう。仕方がないんです。グラスの中の水を捨てたら空気が入っちゃう。空気が入らないように捨てるということは結構難しい。できない。
そういうことで、捨てて捨てる道で、捨てまくって、最終的に、「捨てて何も得ない」ということが可能になるんです。それを解脱と言うんです。
理性あるものは、価値の低いものを捨てて、価値の高いものを得る。おなかが空いて弁当を買う場合は、お金のほうが価値が低い、空腹を満たす弁当のほうが価値が高いんです。だからなんの躊躇もなく買うでしょう。
「千円は大事ですから、これでお弁当は買えません」とはならないんです。
常識的で理性的な行為では、価値の低いものを捨てて価値の高いものを得る。
それと同じ修行法で、進んで行く。修行と言っても同じことです。毎日やっている冥想です。価値の低いものを捨てて価値の高いものを得る世界です。
そこで、最終的には、「捨てて何も得ない」。
それは究極の価値なんです。だから涅槃に究極の幸福と言う言葉を使っているんです。そういう道を進んでいきます。
(東京法話と実践会 2016.04.24
http://twilog.org/jtba_talk/date-160424/asc)
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