ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

ダルさを脱皮していつもピカピカに-「実感すること」が脳を変える(長老の「仏像の取扱説明書」)

2013年新年祝福法要・スマナサーラ長老 

三帰依(さんきえ。ブッダ・真理の法則・僧侶に帰依すること)をしている方々には、お守りや祝福は必要ないと言うのが初期仏教の考え方です。三帰依すれば、それで終わりなんです。三帰依すると言うのは大変なことなのです。

 

世の中で「うちの宗教こそ正しい」というのと同じこっちゃじゃないのかと思われるかもしれません。「三帰依すればそれで最高だ」というのはね。

そういうふうに、学者の方々などが言っているほど単純なことではありません。それは、あまり深く研究しないで言っていることです。

 

ちょっと話がそれますけど、西洋の世界では「どんな宗教も同じことを言っているんだ」「同じ目的を目指しているんだ」と言う考え方が、かっこいい、クールだと勘違いしています。私は「そういうあなた方は各宗教を調べたのか?」「研究したのか?」と聞きたいです。なぜなら、よく調べてみると同じではないのです。

天国があると言っているところは同じですが、生きる道はバラバラですから。

それは調べなくてはダメでしょうし、神は何者かと調べてみると、それぞれ別人なんですね。それぞれの宗教によって。同じ人格じゃないのです。

 

私は、輪廻転生の話はブッダのオリジナルだとよく言っています。それに対して「違う」と言う人々も結構います。

宗教研究家たちは、ブッダが説くのはすべてインド宗教からパクッたものだといいます。そういう宗教家は深みに行かない、テキストを徹底的に読みません。たとえばバラモン教の研究家はそのテキストしか読まない。膨大な量だから仕方ないかもしれませんけど。もうちょっと頭を使って研究した方がいいんじゃないかなと思ったりはします。

 

お釈迦様には人の考えをパクる必要があるんですかね。

 

脳の研究をしている方々は、脳を開発できるのはブッダだけだと言っています。その方々は仏教徒と言うわけではないんですけど。

この脳の部分にはブッダのこの効用、こちらの部分にはこれ、というふうに効き目があると分かってきました。

唯脳論ですけど、脳にも心からアクセスしないといけないということです。

 

そこまで精密に語るブッダが、どうして他の考えをパクらなければならないのですか。ヒンズー教にそんな教えがありますかね。何もないんですよ。

 

輪廻転生の場合はよく言っているのが、原始人も人が死んだらどこかに行くんだよと信仰していました。だから死んだらどこかへ行くんだと言うのは珍しい話ではありません。

死んだら終わりだと言う人々も当時のインドに居ました。

 

魂という概念を作って、この魂が移転するんだと、世の中にある(ブッダの教えと違う)輪廻転生論というのは、魂の引っ越し論です。

 

固定しているものはあり得ないといのが現代科学でも分かってきました。すべて素粒子からできていて、これが現れたり消えたりするんだよと。これって仏教でしょう。

 

お釈迦様が発見した輪廻っていうのは、エネルギーの転化論なんですね。無常論なんですね。

無常=輪廻です。無常論を否定しなくちゃ輪廻論は成り立ちません。

 

世間は無常とは何かをちっともわかっていません。花が散ることを、ツボが壊れることを無常だと思っている。

 

お釈迦様がおっしゃった「三帰依すればそれで終わり」という意味を説明します。

「うちの宗教が絶対的に正しい」という話ではないんです。

 

人間が完全に人格改革をします。三帰依することで。

ブッダを師匠と仰ぐことは、以前と同じ人格ではできません。

だって、「なぜブッダを師匠として仰がなくてはいけないか」と調べなきゃでしょう。

 

調べると、ブッダに勝る生命はいないと分かります。生命の達するべきところに達したのです。

我々はあらゆる不安から解放されています、もう。怖いものが無い状態になっています。

あれやったらバチが当たる、これをポケットに入れておくと幸福になるとか、富士山の頂上の石ひとつ持っていれば幸福になるとか、そういう迷信から解放されています。

 

三宝に帰依することによって、真理を学ばなければいけません。自分で知っているんですね、幸福がどこにあるのか。

人間が何で不幸になるのか。このからくりは何なのか。どうなったら幸福になるのかと知っている。

 

サンガに帰依するということは、こういうことを証明している人はいくらでもいるんだよ、一人ぼっちじゃないんだ、おれだけ頭がおかしいわけじゃないんだと、仲間ですね。

だから、怖いものはなくなっっちゃうんです。

 

心理学的な法則があるんですね。仏法僧に帰依すると、守られているんだという。

理性で生きているんだと言う意味なんですね。信仰は捨てているんだと。自業自得だとはっきり認識している生き方です。

 

説明すればシンプルに聞こえますが、これ人間にできないんですね。芯が弱くて。優柔不断で、不安だらけで。

本気で三帰依が心に入ったら、しっかりします。びくびくすることが無くなります。

 

  • 普通の脳はネガティブ

脳は脅しで動くものです。最近読んでいる本によると、脳には「ネガティブバイアス」があるそうです。人生にはたくさんの経験があるのに、失敗だけ覚えている。それが脳のからくりです。

 

皆様にも経験があるでしょう? やっぱりしっかり覚えているのは、人の悪いところです。

 

だから脳はデータをそのまま見られません。

自分の子供がいい子でいるのに、たった1個2個の悪いことで「この子はダメだ。心配だ」と騒ぐ。それで墓穴を掘るのです。

 

そういう風に、我々の脳は我々を不幸にするようにできています。

脳は屁理屈の塊です。リラックスできない。ムチで動くのですね。自分で自分にムチ打っています。人の欠点ばっかり見て、自分の失敗ばかり覚えておく。

 

  • 「体感」で脳に革命を起こす

そういう欠陥のあるシステムを持ったまま、あちらこちらで人々が「たすけてくれ、たすけてくれ」と言っているので、お釈迦様が最終的な答えを教えられました。

 

その答えを教えてもらったら、もうどこに怖いものがあるのか、と。あとは自分の脳の改革を頑張らなければいけません。脳の改革は医者に不可能です。薬ではできません。

 

ブッダの瞑想や慈悲の瞑想をすると、脳が新しく配線を作ります。アメリカの脳研究でも同じことを言っていました。

 

何をやるにも、気持ちに心に、にインパクトを与えるようにやってください。マンネリというのはダメです。

何か脳にインパクトを与える。

 

「私が幸せでありますように」と言うときは、幸せな気分になってこれを味わってみます。

それで脳に新しいデータが入ります。

 

人生はちょっとしたことで壊れるでしょう。それなのに今生きているというだけで幸せでしょ。よく生きている。考えてみれば誰でも幸せであると発見できる。気に入らないことはいつくかあったとしても、それはほんのちょっとの出来事なんです。自分でネガティブバイアスで妄想して脳を壊しています。その気に入らないことは一個の出来事なんです。

 

「私は幸せでありますように」という言葉を唱えながら、味わってみる。感じてみる。

 

感じなかったら面白くないでしょ。ドラマを見ていても、感情移入しないで白けてみていたら面白くないでしょう。

ドラマや映画をみて世界に入り込んでいる人は、だらしないと思うかもしれないけれど、本人は120パーセント楽しんでいます。

 

私の個人的な映画の見方は、作品の組み立てを客観的に見ます。それで素晴らしい一つのセリフまでの成り立ちを発見したら「マル」です。

実感することで心が変わる。これは勉強、研究でも役に立ちます。対象の人物に成りすましてみる。感じてみる。体感してみる。これで脳が変わります。

 

「私の嫌いな人も幸せでありますように」と思えたら、自分のことが偉いな、と感じるでしょ。それでネガティブバイアスが減っていきます。だから感じちゃえば、そうなっていきますよ。

 

これは時間がかかる作業ではありません。

 

面白いことは、肉体の成長は時間がかかりますよ。脳みその場合は細胞がちょっと違いますから、成長が結構速いのです。

 

そういうことで、慈悲の実践をする時にも感じてみるということをやってみましょう。体感してみる。

難しいことじゃないんですよ。

 

モノマネする人は面白いでしょ。

まねっこゲームと言うのは楽しいゲームですよ。このシミュレーションなんですね、脳に必要なのは。

だからお釈迦様も、「体験しなさい」とはっきりとおっしゃっています。

まず理解する、それから体験すること。そんな難しいことじゃない。

 

今日からやってみてください。

毎日幸福がやってきます。

 

どんな言葉でもいいのですよ。

ブッダンサラナンガッチャーミ(パーリ語で、お釈迦様に帰依します、と言う意味)」といったら、自分がお釈迦様の弟子になったみたいで気分がいいと思います。あの偉大なお釈迦様が弟子にしてくれた、と。現実はなれるか分かりませんけど(笑)

その気分になってみるのですね。

 

脳に変化が起きないことにはどうにもならない。獣そのものなんです。

体験することで、まねっこゲームをすることで、脳が影響を受ける。

 

人間は何をやっても目的は決まっている。「幸福になりたい」

生きることは、「修理したい」と言うことなんです。オーバーホールして、ピカピカ状態に戻したいのです。

 

それで食事をする。食べ物と言うのは命です。だから命を与えています。食事をお布施することも同じで、命を与えることなんです。

そういう布施をするときでも、感じてほしいのです。感じないと、脳はいいことをしたと知りません。いつでも「それでもダメでしょう…」と言いたがっています。

 

精神的に問題のある人はこれです。何やっても「やっぱりこれは効き目が無いんだ」と前もって決めています。どんなにカウンセリングしても、助けてあげようとしてもらっても、精神的に問題のある人々は、カウンセラーに対して高いところから苦笑いしています。

 

面白いですよ。我々は肉体的に病気になったら、医者をバカにしませんよ。「先生、助けてください」と。医者のことがすごく有り難く偉く見えるんです。

 

精神病の人の場合は逆なんです。「そんなことで治るわけがない、オレの病気が」と。

精神病になることは誰にでもできますよ。そういう風に脳がもともとできているんだから。

ネガティブバイアスで自分を否定して、他人の欠点ばかりを見るように。

 

  • 脳は野生時代のまま、安全な今の時代に適応できていない

いつでも逃げる道を探しています。おびえて。あれは原始時代に生き延びるためなのです。やっぱり危険ばかりでしたからね。危険を優先的に見られる能力が付いちゃったんです。で、そのまんま。あまり時間がたっていませんから、進化するために。

 

しかし今は危険の確率をどんどん下げているでしょう。

たとえばキノコは買って食べてるでしょう。店で買って焼いて食べて。何も危険を感じる必要はないでしょ。昔の人間はどんな気分でキノコを採って食べていたんですかね。どれほど危険があったのか。

 

現代はフグを食べたくなったら食べられますから。なんの躊躇もない。

 

なのにいまだにそれを脳が分からないんですよ。

 

昨日新幹線に乗って思ったのは、なんて安全な交通手段でしょうか、と。どてーんと座って、どうでもいいやと言うことで居ればいいでしょう。私が乗った新幹線は新大阪終点でしたからなおさら安全でした(笑)

 

そういう世の中でなんで安らぎを感じないんですかね。なんで脳がマヒしているんですかね。

 

私はこの間、豆乳を買いました。野菜でも豆乳で茹でてみようと思って大きいサイズのを買って、一回使いました。でもその後忙しくなって食事を作れなくなって、豆乳がそのままでした。もうだいぶ日にちが過ぎてしまいましたが、これを捨てると言うのは良くない行為だと、なんとかして無理にでもこれを食べなくちゃと。

 

3週間経った豆乳を鍋に注いだら、水だけですね、出てくるのは。それで振って、中身を出したら、やっぱり腐ってる。でもそれほどひどく腐っているわけではない。鍋に野菜も全部入れちゃったし、もう食べるものがないから、その豆乳で煮て食べました。

 

ちょっと腐っているけど、どうしたことも無いと思っていたのですね。食べたらやはりどうしたこともありませんでした。

 

何が言いたいかと言うと、常識では食べない方がいいものを食べても大丈夫でだったのに、私たちの悲観的な生き方は何なのでしょう。

 

そういうわけで、いまだに私たちの脳は危険しか見られない。欠点しか見られない。不幸しか見られない。幸福のど真ん中にいるのに。幸福がゲリラ豪雨のように降っているのに、「そんなの知らん」と言う状態になっている。

 

「仏法僧に帰依するんだ」というとき、感じてみるのです。それは誰かにやってもらえない。自分でシミュレーションしてやるしかありません。

 

私がお釈迦様(仏像)のお世話をするときは、そこにお釈迦様がいると思っています。「こんなふざけたことをするとお釈迦様に怒られるかもしれない」と自分を戒めながらシミュレーションでやっています。それは迷信とか信仰ではないんですね。礼拝堂へ行くとお食事のお世話もするし、自分が食べても食べなくても関係ありません。

 

仏像にご飯上げて何するのか、と言われたとしても、どうでもいいのです、私にとっては。

 

私はそのときシミュレーションします。「お釈迦様がいまこちら(仏像)にいらっしゃっていて、私はお世話をしなくちゃアカン」ということで自分の師匠のお世話をしている気持ちです。

 

食事を用意して、お経はものすごく早口で言ってさっさと逃げますけどね。これまたかえって気持ちがいいんです。師匠の周りでいつまでもウロウロしているというのもね。

 

そのように楽しく生きるのですよ。世間が何を言っても気にしない。

 

私の部屋でも一番いいところはお釈迦様の場所。ずーっと昔、小さな部屋しかもらわなかったときでも、お釈迦様には一番いいところを作ってあげて、残りのスペースで私は生きていると。

 

掃除するときでも、お釈迦様のところにちょっとでも埃がいかないようにすごく気を付けるんです。仏像は置物だから別にどうったことはないでしょうに。

しかし生きている師匠の体に埃をかけちゃったらどれだけ失礼でしょう。同じ気分なんです。仏像を拭くときだけのハンカチを用意してあります。ほかのものには使わない。

 

そのときは、私がシミュレーションゲーム、まねっこゲームをやっています。なぜそんなことをするのかと言うと、これが楽しい。脳にもちゃんとインパクトが入ります。

 

こういう生き方が必要なんです。これは覚えておいた方が、皆様にとって財産になります。

そういう宝物を理解して、実行してみてください。

 

  • 今日のポイントはいたって簡単。

「感じてみる」

 

無常も感じるもんですよ。無我も感じるものなんです。頭では難しい。感じるまでには、たくさんシミュレーションしなくてはいけない。

 

ヴィパッサナー瞑想も悟った方のものの考え方のシミュレーションです。ねつ造はしない。痛みは痛み。寒気は寒気。音は音。それで脳がいつもやっているネガティブバイアスをさせない。

 

そうすると、心でこれは大変、これはキレイと言う感情表現が働かない。それで落ち着きが生まれてくる。それで脳が変わってくる。

しいて言えば、ヴィパッサナーさえも脳のシミュレーションです。やり続けてやりすぎになったところで本物になってくるんです。

 

そういうことで、日々のストレスから脱皮する人生に。ダルさを脱皮していつでもピカピカと生きてみるようにしてみてください。

 

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