<前回 鋸の喩え - ブッダの教えを学ばなくてもよい人間になれるか?(2) >
そういうことでね、立派なことを言う人は世の中に多い。
答えは、よいことは言う人と関係なく普遍的によいことなんです。
わたしが言うからよいこと、ではないんです。個人の機嫌を取って、われわれはよいこと悪いことを決めるでしょう? それが間違いなんです。「これをやったらこの人が怒る。だからやりません」ではないんです。
会社がいうことだけが道徳だ、家族が言うことだけが道徳だと思っちゃうと、それは道徳ではないんですね。
家族は家族なりに、よしあしを決めますから。会社も会社なりによしあしを決めます。それはわれわれにとっては、普遍的な善悪にはなりません。
善悪っていうのは、それを言った人間と関係なく誰にだって同じ真理になるんですね。そうすると「ブッダの教えと似ているな」となってくる。
科学者が徹底的にいろんなものを研究して発表するでしょう。
「あ、お釈迦様の教えと同じことだ」と感じるものはいくらでもあります。
ある脳科学者がね、「脳細胞には自我がないんだ」と。
この学者は研究で発見しましたけど、本人に自我意識がないのかというと、あるんです。それを取り除く方法を知らない。
自我意識は生まれるんだと、脳が活動すると。それは二次的に生まれるものだと。
じゃあそこは面倒くさいでしょうと、自我を消す? その方法は脳科学者は知らないんです。
だから一部を発見する。しかし全体的ではないんです。
お釈迦様と違うところはそこです。
お釈迦様はすべて知り尽くして説かれたことなんです。
だから正等覚者(せいとうかくしゃ)というでしょう。すべてを発見しましたと。
われわれにとって役に立つものは、いくらでも世の中から学べます。
だからなんでもかんでも頭ごなしに否定しないで、いいところだけ受け取るという能力があったほうが、人間にとってはよろしいんです。
たとえば宗教対立はやめる。
他宗教だとか、イスラム教の人々を「異端者」と、自分以外みんな異端にする。そういうふうな生き方は正しくないんです。宗教対立はやめて、「いいことを言っているな」とか、そういうふうによいところだけ取る能力があれば、わたしたちは人間としてすべての生命と仲良くして調和を保って生きていくことができます。
お釈迦様は人の間違いを厳しく教えていますけど、否定していないんです。
非難していないんです。弟子たちをすっごく厳しく叱るんだけど、弟子だからね。いつでも普遍的に真理を語る。人間に一度たりともお釈迦様は、自分のことを信仰しなさい、と言っていないんです。仏教徒になりなさいよとか。
インドという様々な宗教があった土地で、仏教がものすごく花開いたんだけど、他宗教と戦っていないし、対立していないし。だからといって生ぬるく付き合っていたわけではない。そういう特色が仏教にあります。
わたしたちも、人を非難するんじゃなくて、なにかいいところがあったら、そこを理解してみる。それでも、ただ鵜呑みにしてはいけないんですね。科学者のアプローチが必要です。
「〇〇さんが言ったから正しい」というのはダメ。客観的に、「誰が言ったとしてもこれはよいことである」とする。
(続きます
最終回 - ブッダの教えを学ばなくてもよい人間になれるか?(4))
関西月例冥想会 2016.09.17
https://www.youtube.com/watch?v=--FnQrWEhhQ を聞いて書きました。
『お知らせ』:
10月23日(日)に大阪アラナ精舎でカティナ衣法要があります。
スマナサーラ長老・クサラダンマ長老・ヤサ長老・ワンギーサ長老はじめとする合計6名のお坊様が一堂に会して法要を執りおこないます。
その際にお布施するリストを期間限定(10/17まで)で、個人的に作成しました。
お布施の品は基本的に、お坊様一人につき一つずつ差し上げられるとよいそうです。小物の希望数が6個になっているのはそういう理由です。
下記お布施リストからお布施したり、また品物選びの参考にどうぞ……
アラナ精舎(カティナ衣法要)へお布施するリスト:
カティナ衣法要についてスマナサーラ長老の解説:
いまは俗世間の快楽に浸ってしまって解脱の概念なんかは論外だと思っている方であっても、功徳を積んでおけば輪廻転生すると飽きるほど幸福になるので、気持ちは自然に解脱の方向へ傾くのです。
ですから、仏教徒は功徳を積むと解脱することがたやすいことになるのだと理解しているのです。
仏教国の人々が何かにつけて功徳を積もうと 励むのは、そういうわけがあるからです。
カティナ衣の場合は、年に一回しか出来ない。それまた大安居に入ってその決まりを守って安居を正しく完了した比丘たちがいなければ行えません。