ブッダの瞑想は、世の中で知られている瞑想とは全く違います。
わたし(スマナサーラ長老)が、「違う、違う」とずーっと言っていますけど、皆様の頭の中で他の瞑想法と一緒になってしまいます。
違うものだと理解していれば、必ずうまくいきます。
分かりやすくするために、「ブッダの瞑想法は、瞑想じゃない」としたらどうですか。これからやるブッダの瞑想を、「他とは違うものだ、似ているところはない」と。
こちらでやっている「瞑想でない瞑想」は、何かと言うと、われわれの思考を止めることなんです。思考であるものはなんであろうと、止めているんです。
一つ新しい言葉を紹介します。
「この瞑想は妄想との決闘だ」
誰と決闘するのかと言うと、自分自身の思考と決闘する。誰に勝つのかと言うと、自分自身の思考に勝つのです。
決闘だから、甘く手を緩めたりできるわけじゃない。決闘の中でも、一番たちの悪い、一番難しい決闘です。ほんのちょっと手を緩めれば妄想が勝ってしまします。
決闘で勝つということは、相手が二度と立ち上がらないようにするということです。
剣道や柔道とは違います。決闘はスポーツの試合ではありません。
本当に勝つということは、敵は命がない状態。もう二度と戦うことはないんです。
だから、勝つということは、かなりきついんです。
思考が悪いということは、ずっと言っています。我々の悩みは思考が犯人です。
相手が、世界が、間違っているわけではないんです。「あなたのせいで私が不幸だ」と言いたいでしょう? 「世の中が悪い」と言いたいでしょう?
それは「わたしが幸せになるべきだ」、「わたしが正しい」という前提でしょう?
「あなたのせいで私が不幸」ということは、「今まであなたのおかげで私はうまくいっていた」ということでしょ? これは矛盾です。
よく調べれば、相手のせいで自分が不幸になったわけじゃない。相手にお金をだまし取られたとか、そう言う場合でさえも、自分の思考が不幸を作っているんです。
相手には不幸を作ることはできないんです。自分の思考が不幸になりたくて構えているんです。待ち構えていて、ちょこっとした言葉を捕まえて、もう怒っている。自分で怒るための状態を準備していたんです。
(おわり)
β関西活動報告 : 2006/7/17関西定例瞑想会_伊丹ホール①
よりメモしました。