質問「生きる衝動でゴルフとか山登りをすることと、慈しみをもちながらそれらをやるというのは、どう違うのですか?」
回答(スマナサーラ長老)
人間はいろいろなことをやっているでしょう。何か衝動があるでしょう。やりたいんだからやっていますから。
だから、考え次第で慈しみの衝動にすることもできるし、できないものもある。
できないものは悪いことに決まっています。
ゴルフをやるなら、「自分が元気で明るくなったら、明日から周りに迷惑をかけないで仕事できるぞ」とかね。そういうふうに思考を変えること。
スコアを上げてみんなに見せつけてやるぞ、と思っちゃうと汚い衝動でしょ。あるいは、「俺はえらいんだから、上流階級だからゴルフやるぞ」というのなら、地獄へ行くのと同じですよ。地獄に行くために準備するぞ、ということと同じなんですよ。「上流階級だから、金があるんだから」としちゃうと、悪い衝動で。
衝動を変えることもできます。できないものは断言的に悪い衝動です。
どのように頭を変えても、慈しみの衝動にならないものは悪いことです。
山登りもゴルフと同じことでね。「自然のことを学んで、山のことを学んで、自分の体力にとってそんな簡単じゃない、と気を付けなくちゃ生きていけないものである」とそういうことを身をもって学びながら、山登りをするんだよ、と。
あの山も制覇した、この山も制覇した、とかね、それはただの悪い衝動ですよ。
だから、われわれがやっていることは心を育てるために糧にするかしないかということです。
あまり仕事(行為)を選ぶんじゃなくて、衝動で選んだ方がもっと人間っていうのは自由なんです。
行為で選ぶんじゃないんです。心で選ぶんです。
(関西定例瞑想会 2007.12.16
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/475928.html よりメモしました)
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