ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

わたしたちの人生は運命で決まっているのではないですか?【テーリーガーター:パターチャーラーの話】

質問「現在の自分は運命によって、自然に流されて今に至ったと感じています。自分の選択権というのはあまりなかったのではないでしょうか? 」

 回答(スマナサーラ長老)

ここに生まれた場合は、過去の行為の結果なんですよ。だからある程度は決まってしまいます。リンゴの種を植えたら、リンゴを食べることになります。かぼちゃの実はリンゴの木にはならないので、そこでかぼちゃを食べることはできません。

 

しかし次に、生まれてきた我々がどのように生きるか、ということがあります。それは自分で選択できます。

いくらでも今からの道は変えられます。

 

だから過去を振り返ってみる必要はないと、お釈迦様は言います。今、自分の足元を見なさいよ、と。見て、そこで何とか訂正してみなさいよと。

だから梵天の神様も、自分で修行して、超越して、そういう次元に生まれているんです。しかし、梵天の方々も亡くなります。生命だから。

 

我々も亡くなります。生まれるときは、寿命は大体決まってますよ。

気を付けて生きていれば、だれでも寿命は90歳か100歳くらいです。しかし寿命をまっとうせずに死にます。

言い方は乱暴だわ、食いたいものは食っちゃうわ、友達が何かしようと言うとすぐにやってしまうわ、もう何かに怒ったら何年もその恨みを持っていくわ、そこでわれわれは寿命を縮めてしまいますね。

 

だからいつでも、体をもって生まれたら、それにくよくよするなよと。生まれてみたら自分に目がなかったとする。それで話は終わり。くよくよするなと。

 

じゃあこれからどういきるのか。それが仏教的な見方なんですね。

 

親からもらった体に、何か遺伝的な病気が隠れているとする。それが発症しても、くよくよする必要はない。自分がどのように生きてみるのか。

たとえがんになっても気にする必要はない。「ああ。がんですか」と。

「これからどうしようか」と考えればいい。

お医者さんが、「あなたの場合は、どうしようかじゃなくて、あと半年ですよ」

「ああそうか、半年もあるのか。長いな。半年も計画立てなくちゃいけないんだから」

その半年の計画を立てればいいんです。

 

要は、いかに幸福で、満足して生きるのかということです。

 

それで瞑想でもすれば、心の次元が破れてものすごく高くなるんですよ。そうすると半年で死んでも、その人は梵天に生まれます。その半年ずっと瞑想だけすれば。

 

がんで余命半年なら、寝たり起きたりの生活でしょう。だんだん食べられなくなるし。その時お医者さんに「頭だけしっかりするように、頭に影響する薬は出さないでください。体は自分のものじゃないんだからどんな薬でもいいけれど」という感じで、最後の時間でも、修行することはできます。瞑想することはできます。

 

だから、負けません、ということです。

どんなことがあっても、勝利をして終わります、というのが仏教的な生き方です。

たとえ病気になっても、そこをばねにしてくださいと、お釈迦様が言いました。

全財産がなくなって、一文無しのホームレスになったら、それをばねにして悟りに達しなさい、負けるなよ、と。

 

だからお釈迦様のところに行った人はみんな成功しました。

ある有名な方、女性なんですけど、名前はパターチャーラーというものすごい金持ちのお嬢さんがいました。その方が、召使の男の人を気にいっちゃって。駆け落ちしてしまった。カースト制度が厳しかった。*1

 

億万長者のお嬢さんが、最低の貧困生活をすることになってしまった。それでも好きな男と生活して、子供も一人生まれました。

二人目の子供を産むときに、パターチャーラーは実家に帰って出産したいと、実家へ向かいました。しかし、嵐にあって、さらに不幸なことが重なって、その道中に夫も子供の死んでしまった。

 

実家に着くと、前夜のあらしで雷が落ちて家ごと焼けてなくなっていた。それでパターチャーラーは気が狂ってしまいました。記憶もほとんどなくなってしまって、ただ「お父さんはどこ?」とだけ言ってさまよっていました。

それを見た人びとが、彼女をお釈迦様のところへ連れていきました。

 

パターチャーラーは服もみな破けて裸同然のかっこうでしたが、お釈迦様が一言、「おかえり」と言ったんです。その慈しみにあふれた言葉に、我に返りました。それで自分の格好に気付いて、しゃがみこんで、「みんな無くなってしまいました」と。

 

お釈迦様は「そうでしょう」と。

「なにもかも、夫も、子供も、両親も、家も、何も自分のものじゃないんだよ。だから自分をしっかりとしなさい。自分というものを」

 

それで彼女がそのまま出家して、大阿羅漢になりました。

ブッダの尼弟子のなかでトップグレードの人になりました。

 

人生に負けたんですかね、彼女は。彼女ほど、そこまで不幸というのはあまりありません。

 

仏教というのは、負けません、という世界です。

どんな不幸も越えて、幸福の扉を開きます。

 

いろいろハンディをもって生まれます。日本人が長寿と言っても、誰もがそんなに長生きしません。

いろいろなハンディがある。それに足を取られるとどうなりますかね。

 

しかしわれわれの日常はどうですか?

学校で、会社で、ちょこっといじめられると、それで進めなくなっちゃう。

姑さんの一言が気に障ると、一生恨む。お互いに憎しみあって。

姑さんも、孫はかわいいんだけど、嫁は早く孫を置いて出ていかないかな、とかね。

これが幸せな家族でしょうか。人間はいかにバカかという。

 

ハンディはあるのが当たり前です。

人は、そんなものに足を引っ張られないようにして、成功をおさめなければいけないんです。

いつでも前へ、前へと進まなくてはいけないんです。

 

その中でも、一番の成功は、心の安らぎ。

悩みませんよ、そんな程度では、という心です。

たとえ両目が不自由であっても、そんなのを誰が気にするか、という気持ちです。

 

そういうふうに心のやすらぎを得ることが成功です。

わたしたちの人生は運命で決まっているのではないか、という質問ですけど、わたしの答えは「運命を気にするなよ」ということです。

 

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/315681.html

2007年3月18日関西定例瞑想会(音声ファイル上)よりメモしました)

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*1:

巻頭法話(43) 「生きることは爆弾遊びか」1998年9月 「釈迦尊の時代、インドに、パターチャーラー(Patâcârâ)という名の大富豪の娘がいました。彼女は、召使いの間でも特に身分の低い若い召使いと恋に落ちてしまい、駆け落ちをしました。……」