ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

なぜ瞑想が途中からうまくいかなくなるのか

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7月6日の初期仏教Q&Aで最初の方に瞑想に関する質問がありました。

そこでスマナサーラ長老からお話があった経典は2016年に経典解説で取り上げた梵網経ではないかなと思いまして、過去記事にあったものを参考に上げておきます。

 

thierrybuddhist.hatenablog.com

片山一良先生訳の長部経典(以下)110〜121ページ

長部ディーガニカーヤ 戒蘊篇

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に見解に陥る梵天や神々の話があります。

経典では、ある梵天が自分の見たことだけを元に信念を作り出し、自分を創造主だと勘違いするというエピソードがあります。他の神々も、自分の認識範囲で「ある生命は永遠で、他の生命は死する」と結論付けます。

この梵天・神々の勘違い話はSFのように聞こえるかもしれませんが、核となるメッセージは「生命がいかに自説を作り出し、それに固執するか」という、わたしたちにも日常的によくある話なのです。

(上記の過去記事より引用)

「尊敬すべき沙門・バラモンたち」がなぜ邪見に陥ってしまったのか? 

達するのが難しい禅定の境地にまで入って、なぜ誤った見解をもってしまったのか?

 

その答えは、「渇愛に囚われた者たちの煩悶し動揺したことにすぎません」。

つまり、いくら禅定に入っていても、渇愛がそのままあるので、怖れと不安でこころが揺らいでしまうことが原因ということです。

 

キーワードは、Phassa(パッサ=触)。

眼耳鼻舌身意の六処に情報が入ってPhassaが生じても、それを掴んではいけません、というお釈迦様のアドバイスです。

偉大な長老方がよくおっしゃる「放っておけ」「執着するな」「固執するな」というのは、こういうことだったとわかります。

(上記過去記事より引用)

 

梵天でさえ何かを掴んでそこで自己判断をしてしまうのですから、私たちが掴みまくってしまうのはもう仕方がない話ですが、

瞑想が途中で進まなくなったり自ら聖者宣言してしまいたくなったりするのは、こういう理由ですよと教えてくれる経典でした。