ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

カルマの中で生きている私たちに自由意思があるんですか?

質問

カルマについて教えてください。

仏教に出あうこともカルマであって、仏教の話を聞いても、人によって修行しよう(修行しない)と思ったりするのもカルマだと思っています。

すべて過去が決めてしまうことになると思うが、その場合、論理的に運命ということになってしまう気がする。そこに、その場その場での自分の自由意志というのはあるのですか?

 

 回答(スマナサーラ長老)

それは仏教で否定しているカルマ論ですね。

インドで一般的に考えられていた運命論です。

無常に逆らっているでしょう、運命論は。

 

仏教のカルマ論はものすごく難しいんです。どのくらい難しいかと言うと、「カルマ論については、考えないでくれ」とお釈迦様が頼んだんです。

 「あなた方は考えない方がいいよ。考えたら頭がいかれてしまいます」と。

 

これも人間の能力範囲を超えているポイントなんです。

 

わたしたちはカルマについて考えてしまうと、お釈迦様が邪見だと言った業論に落ち着いちゃうんですね。じゃあどうしようかというと、お釈迦様は、「シンプルに、悪いことをしないようにしなさいよ。いいことをするようにしなさい。それで十分だ。それ以上はね、あなた方の能力範囲を超えています」と。

 

だからできれば、それだけで止まればすごく安心です。

会社を首になったのはカルマが、とか、子供が病気になったのはカルマがあるから、という話になると邪見です。

 

業っていうのは、行為に結果があるという話です。アクションには、リアクションがあります。

いつでも物事は起きています。一つ起きると次になにか起きる。ずっとあることです。避けられない。

石を投げると言うのは一個の行為じゃないんです。無数の行為です。その無数の行為に無数の結果があります。

 

まず、意志がありますか? と。これはすごく難しいポイントですよ。

 

西洋宗教では、絶対神を設定しちゃったんですね。敵を攻撃するための考え方です。

しかし、自分たちだけになったら? ちょっと困ったものです。敵がいなくなっちゃうとどうしますか。

 

すべて神が人間を作ったのに、神を信じない人のほうが信じる人より多いんですね。これちょっとあり得ないんですね。そこで自由主義というのを入れちゃったんですね。神がいるかいないかを自分で判断しなさい、と。神が自由意思を人間にくれたと。

そうなると矛盾で、神には文句を言う権利がなくなっちゃうんです。

たとえばわたしが、「神はいない」というと、神はわたしにバチをあてる権利がないんです。だって神がわたしに自由権を与えてくれたんだからね。わたしは合法的に言っているんです。合法的に言っている人を地獄に落とすぞと言うと、そこにまた矛盾があるんですね。

 

正しい答えは、人には自由意思があるんです。生命には自由意思があるんです。それは心があるからなんです。

 

生きているのは心なんです。物体じゃないんです。心が物体を支配管理して生きているんです。だから心には要求があるんです。

これは仏教で渇愛とも言います。この心にある要求が、意志になっちゃう。

 

それを自由と呼ぶべきかと言う問題があります。

 

たとえばおなかがすいたら、ご飯を食べるという選択しかないでしょ。わたしの自由意思でご飯を食べているんだと堂々と言えますか? 自分がうどんにするかそばにするか決めますけど、食べないで寝るか、にはならない。無理矢理寝られますけど、あの要求は満たしていない。

 

自由意思で行動判断できるんですが、それを自由と呼ぶべきか、という問題があります。

 

仏教では、人間性、と言う言葉を使っています。

 

自分がご飯を食べることをやめて寝ることにするのは可能です。しかし結果は変わらないんです。ご飯食べることをやめるということで、寝るという結果が出てくる。業があるんです、いつでも。

 

しかし、たとえば、人が何か言う。言うと、わたしには理解できるというところで自由が働いています。人が言うことに怒ることもできるし、笑うこともできる、という自由があります。

 

そういうところで自分の意思が働いてくれる。そこはうまく、すごく大きなシステムでお釈迦様に説かれています。怒るなよ、欲張るなよ、と。

 

たとえば人に馬鹿と言われる。そこで何の訓練もない人の自然な意思は、怒ることです。そこで「わたしは笑っちゃう」ときめると、レベルアップなんです。感情を抑える必要はない。

 

そこで仏教では聖なる道、noble life。仏道でも、noble teaching と言うんですね。Nobleというのは貴族と言う意味ですからね。格がすごく上、という。だから格が上の生き方をするぞと。だから何も抑えません。かなりクールな態度を見る。

 

餌を見たらそこにワーッと食いまくることは、動物もやってますからね。だから何か見ただけで聞いただけで欲を出すのは、品格がない、畜生のレベル。お釈迦様も「畜生の生き方である」と平気で言っているんですよ。

 

こらえて我慢することじゃないんですよ。

こらえて我慢するのは動物もやっています。森の中でチーターが獲物を捕る。そこへハイエナが来るんですよ。チーターは二日三日食べてないのに、やっと獲物を捕って、子供にもおっぱいをあげなくちゃいけないのに、それを食べ始めるとハイエナが来る。ハイエナが来るとチーターが下がって行く。子供たちを連れて。

 

あれ、noble lifeじゃないですよ。チーターは獲物に対する欲を抑えて出ていきますが、こらえて我慢したんです。Nobleで行動したわけではない。身の安全を図っただけ。

われわれは俗世間では欲張らないで行動しますが、これも身の安全を図っただけ。

 

社長にガンガン叱られて、社員が「申し訳ございません、申し訳ございません」と言うのは、怒ってないからですか? 身の安全を図っているだけです。それはnobleな生き方ではない。

 

お釈迦様がおっしゃっているのはnoble life、品格のある生き方。怒ろうと思えば怒れますが、怒りませんよ、と。

怒ろうとする前に、智慧を、理性を入れるんです。

 

(関西定例瞑想会 2009.02.22

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/794715.html  よりメモしました。

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