ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

お釈迦様が伝え残したアングリマーラ長老のパワー【性格は直せるか(5)最終回】

その性格でどう生きるべきかと、考えてください【性格は直せるか(4)】より続きます)

お釈迦様の弟子のひとりにアングリマーラ長老がいました。

殺人鬼なんですよ、もともと。経典では999人殺しちゃったとありますけど。そこは相当殺した、ということですね。それでもお釈迦様はアングリマーラを出家させるでしょう。

 

お釈迦様は何を見ているんですかね。人殺しはとんでもない罪でしょう。しかしお釈迦様はそこを見るんじゃなくて、この人の人生の課題をどう乗り越えるのか、ということを見ていたんです。お釈迦様に見えたんですよ。アングリマーラが人を殺しに行ったのは、「人を殺したいからじゃない」と。言われたことを真面目にやる性格だったからです。中途半端じゃないんです。目上の人に何か言われたら、すごく丁寧に真剣にやり遂げようとする。

 

アングリマーラの師匠は、彼を誰かに殺させようとしたんです。すごく怒っていて。アングリマーラは一番トップの学生だったので、他の学生が嫉妬して師匠に陰口を言った。師匠は優秀な学生を出て行けと言えないし、陰口だから表に出すこともできないし。そこで「神様にお供えしなければいけない、師匠個人の仕事があるんだ」とアングリマーラに言う。「君がこれをやってくれれば、それで最終的に修了としますよ」と。

 

それで、アングリマーラは「はい、やります」と言って人殺しに行っちゃったんです。

この仕事と言うのが、「1,000人の人々を生贄にする」という。この人が、先生のためにやっちゃたんです。

 

そこでお釈迦様に見えるのは殺人じゃないんですよ。

お釈迦様は、「生き方が違うでしょう」と教えてあげたんです。するとアングリマーラは「今までの先生よりかなりランクが上のことを教えてくれた」と思って、それから師匠はブッダになっちゃうんです。ブッダの弟子になりたいと言ったら、「ああ、いいよ」と、それで出家ということになりました。その後アングリマーラ長老は悟りに達しましたよ。成功でしょう。

 

しかし、出家したからと言って社会では生きていけないでしょう。法律では首はねでしょう。そこをお釈迦様は守ってあげる。でも「この罪を許してあげなさい」と王様に言っちゃうと法律違反です。それはやってない。

 

お釈迦様はすごい智慧で王様に引っかかってもらうんです。

王様は「わたしはアングリマーラを殺しに来ましたよ」とお釈迦様のところへ来ました。しかしアングリマーラのことが怖いんですね。一人であんなにたくさんの人を殺すほどでしたから。だから王様は恐る恐るで、もしお釈迦様が「王様、危ないからやめなさい」と言ったらやめるつもりだったんです。

 

お釈迦様「それはすごい怖い殺人鬼でしょうねぇ。こんなに大勢の軍隊で捕まえに来たんだから」

王様「そうなんです。馬に乗って行っても意味がないんです。あいつが叫ぶと馬がおしっこ垂らしてひっくり返ります。アングリマーラが『待てっ!!』というと、みんな止まってしまいます、カチッと。すごいパワーなんですよ」

 

アングリマーラを殺しに人々が弓とか持って行ったみたいですよ。でも、アングリマーラが「おい、待てっ!!」というとみんな体が硬直してしまったそうです。だからなかなかアングリマーラを倒せなかったんです。

そういうとだから、王様からしてみれば軍隊を持って行っても確信が持てなかった。

「待て!」とアングリマーラが言ったら、みんな待ちますから。

 

で、お釈迦様が「じゃあ、結構怖い人なんですね」と。

王様「そうなんです」

お釈迦様「もし、その人が出家して、アリ一匹も殺さない人に変わって真面目に修行している、清らかな道を歩む人になっているなら、あなたならどうするんですか?」

王様「それなら、わたしは礼をして拝むしかないでしょう。出家したなら、わたしは守ってやらなきゃならないんだから」

 

そうしたら、お釈迦様は、王様が怖くなると困りますから、王様の手を取って、

「国王、この比丘がアングリマーラです」

と。

傍にいたんですよ。お釈迦様はわざとアングリマーラ長老の前でさっきの話をしたんです。で、王様の手を握って、「この人です」と。

すると王様がビクッとビビるんですよ。しかし、お釈迦様が手を取っているんですから、王様がビビったことはお釈迦様にしか伝わらない。他の人には分からない。

 

皆様も分かると思いますよ。子供も何か怖がっても、親が抱っこしている場合は、その怖がった波動が親にしか伝わらない。それは子供にとって最高に安心感なんです。自分が怖がったことは誰にもばれなかったと。それで子供は親をすごく有難く思って大事にするんですよ。

 

それと同じで、コーサラ国王にしてみれば、お釈迦様が自分をいかに守ってくれたかと、自分の父親よりもはるかにすごいことなんですね。

その信頼関係もあるし、ついさっき「出家したなら自分が守るしかない」と言ったんだから、すぐにアングリマーラ比丘に礼をして、

「真面目に修行してください。心配することはないんだ。わたしが安全に修行できるように守ってあげます。衣やら食事やら必要なものは全部用意します」

と言ったら、アングリマーラ比丘は、

「要りません、わたしには。衣もすべて揃っています」

 

こういうブッダのストーリーをちょっと見てみても、どれほど生きる道を表しているのか、ということなんですけど。

 

それでアングリマーラが出家したことが人々に伝わる。自分の家族を殺された人たちにも知られる。

しかし、王様がすべて罪を免除しました、となると、誰にもどうすることもできない。

だからと言って、殺された被害者の家族には、やっぱり感情があるでしょう。でも、阿羅漢だからどうしようもないしね。

 

ただ、経典では、子供がカラスに石を投げようとすると、その石がアングリマーラ長老にぶつかるんだと。石がどこかの木にぶつかって跳ね返って、それがアングリマーラ長老に当たる。

だから托鉢に行ったら、頭から血を流して、鉢が壊れて、血まみれで。

 

そのときお釈迦様が何を言ったのかと言うと、

「偉大なる人よ。忍耐しなさい」

 

その言葉にもう一つ意味があるんですよ。

われわれはいろいろな欠点で社会からいろいろなことを言われるかもしれません。いじめられるかもしれません。けなされるかもしれません。しかし、気にしてはダメなんです。それに負けてはダメです。それを変えようではないんです。

 

誰にでも、いろいろなトラブルがありますよ。これさえなければいいのに、と言う考えではダメです。

たとえば、「結婚して幸せなんだけど、一つだけ不満がある。相手がおしゃべりでこちらはたまらない」とか。「どうにかなりませんか?」と言われても、どうにもなりませんよ。

自分の息子娘にしても、ムチャかわいいんだけど、これだけ何とかなれば……と。

 

それだけが何とかならないんですよ。なぜなら、それが必要なんですよ。自分の道を開くために。

何とかなったら困るんです。

 

そこでわたしたちは、人間に生まれたから、そこで広げるんです、自分の生きる道を。

 

インドに行ったら、アングリマーラ長老が隠れていた場所と言うお寺があります。もしかすると本当かもしれません。経典に書かれていないんだけど、考古学的に発見されていますからね。地下で、上からは行けません。だからちょっとくぐって中から行かなければならないんですけど、そこは誰かの家だったそうです。アナータピンディカ居士の家か、アングリマーラ長老のお母さんの家かね。

アングリマーラ長老は町に出ると何されるか分からないから、隠れていたのがこの場所だと。発掘してありますよ。

  

建物の上のほうから見学できますけど、地面にすごい大きい穴があるんです。そこから小さな入るところがあって、そこからどうやって外へ出るか分からない造りのものがあることはあります。インド人がわざと作ることはできなし、発掘したら、これはアングリマーラ長老が人々に殺されないように隠れていた場所だと。

考古学的な発見ですけど、仏典では、そこに隠れていたという記述はないんです。

 

別なところで一つエピソードがありまして、コーサラ国王が、ものすごい巨大なスケールでお釈迦様にお布施したんです、一回だけ。

そういう巨大なスケールのお布施のお祭り、大行事というのは、どんなブッダにも一回しかないんだというすごい物でした。

 

それははじめに国民がお釈迦様にお布施して、次の番が王様になっちゃったんですね。そのとき王様が派手にやっちゃったんです。それで国民が腹が立って(笑)、次の日はもっとカッコよくやったんです。王様は、ここでわたしが負けるわけにはいかないと、三日目はもっと派手にやっちゃって。

六日目になると、国民が負けてたまるかと知恵を絞ってもっと派手なお布施をしたんです。それには王様は負けちゃったんです。

国民みなの力と、一人の王様の力では、王様はかなわないんだからね。

 

それっておもしろいでしょ、仏教の世界は。王様とやり合っちゃうという。しかしお互いに怒り憎しみは何もない。おもしろくて競争する。これって仏教だからでしょ。

 

「殺してやるぞ、王に向かってなんて失礼な」というのはない。王様も喜んじゃって、「負けてたまるか、今度はもっと派手にやるぞ」と。だから、いかに国民と王が仲がいいかと言うことです。王様のことを尊重するんですけど、脅えてはいないんですね。

「王様に負けてたまるか」という、あの平等な調子。それを仏教は作っているんですよ。

 

七日目になると、王様が自分の負けだと引っ込んじゃったんです。それでマッリカー夫人が、夫人は悟りに達している方で、王様が調子が悪いと分かって、理由を尋ねたんです。

 

理由を聞いて夫人は、

「それくらいのことで情けない。国民に勝てる方法を教えてあげますよ」

どういうことかというと、一人一人の阿羅漢に座る席をすごく派手に作る。その各席の両側に王様のハーレムから侍女を配置して、風を送らせたりお香を焚かせたりさせる。それは国民にはできない、王様しかできないこと。さらに一人の阿羅漢に一頭ずつ象を後ろに立たせて、食事中ずっと象の鼻で傘を差させておく。象は王様だけの財産です。

 

だから負けるでしょ、国民は。それで王様が乗っちゃって、なるほどと。これだったら私が勝ちますよ、とすぐ用意したんです。

 

お釈迦様と五百人くらいの阿羅漢たちがお食事に行ったんです。お釈迦様たちが座ると、象を連れてくる。大変ですよ。しかし、象一頭足らなかったんです。

 

で、一応王様は命令するだけで、仕事をするのは昔も今も女の人だからね。家来の人はマッリカー夫人の元に走って来て、

「お妃、大変なことになりましたよ。象一頭足りません」

「足りないわけはないでしょう。ちゃんと用意したでしょう」

「いえ、用意したんですけど、暴れて手が付けられないんです」

 

雄象は、発情期になるとそういうふうになることがある。危ないんですよ。ものすごく凶暴。落ち着くまで一か月間くらいかかるんですよ。見るものなんでも壊す。

 

わたしの国でも経験がありますよ。雄象がそういう時期になると、誰も近寄らないようにして、鎖で足を縛っておいて、象使いが用心して、水と食べ物だけあげる。時期が終わればおとなしくなります。象は、あんなに怒り狂っていたのに自分を世話してくれた象使いのことを覚えているんですよ。それでお互い信頼関係が生まれてもっと仲良くなる。

 

マッリカー夫人は、「ああ、わかった。アングリマーラ長老が来ているでしょう」と。

「凶暴な象をアングリマーラ長老のところへ引っ張って行って、傘をあげさせなさい」

 

そうしたら、アングリマーラ長老の後ろに連れてこられただけで、その暴れ象はおしっこを漏らしちゃったみたい。それでしゃがみこんだところに、「傘を持ちなさい」と象は傘を持たされて、静かにそのお布施の会は終わったみたい。

 

次の日、国民は自分たちの敗北を宣言しました。

 

そのストーリーでも、アングリマーラ長老はどれほどの迫力のある方だったかと。

お釈迦様は後世にもアングリマーラ長老の力を伝え残したかった。お経にもあるんです。

アングリマーラ長老はただ人殺したわけではないんです。言われたことを真面目にやる人だった。たまたま悪人に引っ張られて、人殺しに出されてしまった。

 

ある日、あるお母さんが出産始まって、逆子で出てこなくなった。それで死にかけてしまっていた。

アングリマーラ長老が通りかかって、その苦しみを見ていられない。そのままお釈迦様のところへ報せに行った。そうしたらお釈迦様が、

「じゃあ、あなたが祝福したらどうですか?」

「え、どういうふうに?」

「“わたしは生まれてから一つの生命も取ったことがない。その真理の力によってお母さんと子どもが幸福でありますように”と、言ってください。すぐ治ります」

「お釈迦様。わたしはどうやってその祝福を唱えられますか? わたしはたくさんの人を殺したでしょう」

「ああ、そうかそうか。では、“聖者として生まれた時から(出家してから)、一つの生命も取ったことがありません。その力によって母と子が幸せでありますように”と唱えてください」

「あ、それならできますよ」

 

それをアングリマーラ長老が唱えたんです。そうしたら逆子がブツっと生まれちゃったんです。

 

いまでもそのお経を安産のために唱えます。しかし、妊娠何か月か聞いてからじゃないと危ない。まだ四か月くらいだったら、あの経典は唱えません。(早産が)危ないんです。それくらい力があります。

明日出産予定日とかギリギリのところになったら、また来てください、と言って、後日あの経典を唱えます。

 

だから人は、自分の道を発見するんですよ。

ガチャガチャ文句言うんじゃないんです。

あのアングリマーラ長老も、最悪の中でお釈迦様に出会って、本人の歩むべき道が出てきたんです。

 

だから、仏教を学ぶと、それぞれの行くべき道が見えてくるんです。

ときどき変なことを言う人もいますよ。何人か女の人で出家してきて。(でもわたしは)すぐ断る。あんただめやとか、いい加減にしろよとか。きっぱりこちらは断るんです。しかし、本人がちゃんと道を選んでいるならば、どうぞ頑張ってくださいと。

 

だから、仏教の世界は完全な安全な世界なんです。

ときどきわたしが「だめ、やめなさい」というときは、結果がないんです。

ミャンマーに行く人の中でもね、「あんたやめたほうがいいんじゃない」と言う場合もありますよ。もしわたしが「あんたやめたほうがいいんじゃない」と言ったら、やめることなんです。

そこで失敗したら失敗したまんまなんですよ。もう道が閉ざされるんです。今世は終わり。

そういうケースもいくつかあります。

親が言っていることに逆らうのとは違いますよ。こちらは親でも何でもないんだから、真理で言っているんです。

 

だから、ミャンマーに行くべき人じゃなかったら、わたしは行くなよとは言わないけれども、「まあちょっと、あとにした方がいいんじゃない。早すぎではないですか?」と言います。行くなよとは言えません。修行するなよということだから。日本ではロクに瞑想できないし、時間もないし。

ミャンマーでは在家の人がご飯まで用意してあげて、面倒見ているし、そこは行くなよとは言えませんよ。だから「あとで行った方がいいんじゃない」とか、微妙な言葉を使うしかないんですよ。それで理性がある人なら、「そうか、じゃあ来月くらいにでもします」ということになるんです。

(親でもない)わたしが(ミャンマー修業期間は)半年、三か月で十分だと言えばそれで十分です。

 

じゃあ、時間になりましたので話は終了したいと思います。

 

(関西定例瞑想会 2009.04.19

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/841826.html 音声ファイル・一番上からメモしました)

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タイ語アングリマーラ長老物語(Yahooショッピングより)
 
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hamacyuu.hatenablog.com

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