質問
「自我ということに関係するのかもしれませんが、最近、ずっと不安があります。
自分がちゃんと死ねるかどうか、という不安だと気づきました。ちゃんと死ねるかどうかというのは、自分が死ぬということは分かっていると思うんですが、病気になった時、「ああしてくれ、こうしてくれ」と言ったり、寝込んでしまったり、年を取ってちゃんと歩けるのか、そういう自分をきちんと認められて、受け入れられるのか、という不安が出てきました。
安楽死で、なんで早く死んじゃいけないんだろう、病気で苦しい時に。
安楽死とは本当にいけないのでしょうか?
『人間は生きたように死ぬ』という言葉をどこかで聞きました。ちゃんと死ぬためにちゃんと生きる、と。
ほんとにちゃんと生きたら認知症にならなかったり、長患いせずに死ねるのですか?」
回答(スマナサーラ長老)
自我の錯覚があるから、あれやこれやと思考する、妄想する。
主語はいつでもわたしなんですね。「わたし」はちゃんと死ねるのか? この「わたし」という主語自体が錯覚で存在しないんです。
でもわたしたちには分からない。「わたしは存在しない」と言っても「わたしはいるんじゃない?」と思う。そこでよく調べて「わたしがいない」ということを発見しないといけない。
自我が強いほど、すごく悩む。たとえば自分の命に対して、体に対して執着があると、「寝たきりになったら、病気になったらどうしようか」といくらでも悩む。それは「自我愛」です。一方で「自己愛」は仏教は認めているんです。「自『我』愛」は否定しています。
だから、自我であろうか自己であろうか、どうでもいいんだけど、管理できないものは放っておくというのが「道」です。
わたしは年取る。管理できません。それは放っておく。風が吹く、雪が降る、管理できないから放っておく。悩む必要はないんです。
それでこの肉体は自分には管理できないんです。年取ることは管理できないんです。
質問者「病には立ち向かえという言葉がありますが?」
べーつに、放っておけばいいんです。立ち向かわなくても。
立ち向かってもおっかないものはおっかないでしょ。津波に立ち向かう? 逃げればいいでしょう。
だから、立ち向かうのはその場合じゃないんです。
わたしたちは年取ると目の力が落ちる。仕方がありません。
食欲が落ちる。仕方がありません。
体がすごくスローになっちゃう。仕方がありません。
若い時に持てた重い荷物が持てない。仕方がありません。
そこで穏やかに、歩けなかったら、杖を持って歩くとか。「だから何?」と言う態度を取る。「世の中の事だから、私に関係ない」という態度を取る。
杖をつくのは恥ずかしい、昔はモデルのように歩けたのに、と思っても、「そういう時期はありましたけど、だから何?」と冷静でいることが必要です。
二番目、わたしたちに管理できることがある。自分の心。
怒らないでいること、嫉妬しないでいること、欲張らないでいることはできます。穏やかでいること、精神的にほほ笑むことは、訓練すればできます。
生きるか死ぬかは自分に管理できる世界じゃないんです。
この体の機能がパシッと停止するだけで、死ぬ瞬間というのはどうってことない。心が体から離れるんだから、痛くもかゆくも何にもないんです。
問題はその前です。死が近寄ると体がガタガタとなる。呼吸できなくなってくる、食べられなくなってくる、目が有るんだけどロクに見えなくなってくる。そこはみんな苦しむんですね。
そのときも、体に対して愛着がなければ、「そんなもんだ。管理できんや」ということで、執着を捨てるんですね。
わたしの体はもう、あらゆるところが痛いんですよ。足も痛いし、指も痛いし、腰も痛いし。でも「(体に対して)勝手にしなさい」と思って、今は説法しているんです。
「あ、いてててて! どうしよう!」というのはないんですね。
それで今、死ぬことは何のこともなく、明かりが消えるように死ぬ。しかし心と言うエネルギーは続きますから、また新たな命を構成しちゃうんですね。
そこで心が新たな命を構成するならば、「心がどれくらい強いか、どれくらい財産持ってるか」で次の建物を構成する。
だから、「肉体はどうであっても心は豊かに」というのがブッダの言葉なんです。
肉体はクタクタで動かすこともできなくなるが、「いいや、ゴミだから。捨てるものだから」と。しかし心は豊かで。
そうすると、来世がある場合は、立派なお城を作ることができるんですね。
結構豊かな資源を持っているんだから。
われわれは、「いかに清らかな心で生きるのか」が欠かせない課題であって、「どのように死ぬのか」は捨ててください。そんなの関係ない。分からない。事故で死ぬか、地震で死ぬか。
今、肉体の事で悩んでいるでしょ? 肉体のことは管轄外です。心のことで心配してください。
「この心で死んで大丈夫なのか?」と心配してください。
たとえば、この体が寝たきりになっても、わたしは悩まなくほほ笑んでいられるのか? 愛着が捨てられるのか? そこがわれわれ一人一人の課題なんです。ただそれだけです。
(安楽死はダメなんですか? に続きます)
(東京・法話と実践会 2015.04.29
http://www.ustream.tv/recorded/61671391 よりメモしました)
関連エントリ:
仏教を知る前の方が心は安らいでいた。仏教を学んで間違った方向へ行っているのでは?
若い時は「自分は死ぬわけない」と思っている。年を取ると本当に病気が起こってきて怖くなるんですね。誰にでもあることです。
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