(病気になるのが本当に怖いんですより続きます)
質問者「じゃあ、安楽死っていうのはダメだっていうことですか?」
回答(スマナサーラ長老)
安楽死がダメということでなくて、それも自我でしょう。
わたしには断言否定も断言賛成もできないけれど、自分に対してあまりにも考えちゃうと、「こんな肉体では嫌だ。早く死にたいんだ」という場合、そこは安楽死がいいかどうかをチェックするのではなく、心が清らかなのかとチェックした方が、執着あるかないかとチェックした方が、正しいんです。
たとえば、ある人に言ったんです、電話で。
「長生きするということがそんなにいいことじゃない。自分の命が人の役に立たなかったら生きる意味がなくなるでしょう」
わたし個人の場合は、坊主ですから、勝手に、人の役に立っているんだと思っているんです。本当に役に立っているかどうかはわかりませんだけどね。
自分としては人の役に立つようにと生きている。
わたしが、しゃべれなくなって、ボケちゃって、人に何の役にも立たなくなったら、それでも生きる必要あるのかい? という気持ちもありますよ。
もし、「人の役に立てなくなりました。生きることで人の迷惑になるだけだ」と言うんだったら、自分で安楽死を決めてもいいじゃないかと言う考えもあるけど、安楽死しても人の役に立つ? 逆に。
われわれは、病気の人の面倒をみることで徳を積むでしょう。
困っている人を助けてあげることで。寝たきりの人を面倒見てあげて、助けてあげて、われわれは立派な人間になっているんだから、たとえ役に立たない人間であっても、ただ生きただけでも、周りの役になっているんじゃないかなと思いますよ。周りが徳を積むんだから。
ですから、そうやって自分で何もできない状態に陥っても周りが面倒をみることになる。それは周りの人々にとってはチャンスなんですね。いいことをするために。
そうなると、安楽死がいいかどうか分からなくなっちゃうでしょう。
とにかく余計なことを考えないほうが無難でしょう?
ただ心が清らかでしょうか? 欲・怒り・嫉妬で汚れているのか? 自我がどれくらい減っているのか? と言うところをチェックした方がいいかと思います。
(おわり)
(東京・法話と実践会 2015.04.29
http://www.ustream.tv/recorded/61671391 よりメモしました)
もうちょっと、死の恐れがある人にしゃべります。みんなあることだから。死ぬっていうことは。できるだけ早く考えた方がいい。子供のころからでも。自分も他人も死ぬんだよ、と。そうすると世の中が正しく見えてくる。