質問
「ヴィパッサナー瞑想を始めるに当たっては、五戒を守るのが前提だと著書にありました。しかし、五戒を守るのは非常に厳しい状況です。不殺生戒にしても、不飲酒戒にしても、なかなか自分にはできないなと、仏道の入り口のところで逡巡しています。どうしたらいいでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
五戒を守ることは道徳的な人間になりなさい、と言うメッセージです。まともな、立派な、理性的で間違ったことはしない人間になりなさいというメッセージなんですね。性格がだらしなくて、その上、悟ろうというのはどういうことでしょうかね? 悟るっていうのは性格が完成するということだからね。
それはステップ・バイ・ステップで治して行かなくちゃならないんですね。人間には、なにか一発でできることはあり得ないんです。何やっても、計画立てて、段取りして、順番で、着々と進めるものなんです。世の中すべてそうなんです。
一発でできるように見えるのは、破壊することだけなんですよ。自己破壊、他人破壊、世界の破壊、でもそういうことでも、なにか企画を立てなくちゃ、段取りが何かあるんですよ。たとえばテロリストがどこかに爆弾を仕掛けようとするでしょう。その場合も精密に段取りしてやらなくちゃいけないということになりますね。
物を壊そうとしましょう。簡単ですね。たとえば瀬戸物を壊しますと、思ったら落とすだけですね。しかし作る方はどうでしょう? 瀬戸物を作ろうと思ったら、結構時間かかる、根気がいる仕事なんですね。
その中でも、われわれは一番難しいことをやろうとしているんです。オリンピックで金メダルを取るよりも、ものすごく難しいこと。人格を向上させ、完成させるというね。だからちょっと、根気強く、粘り強くがんばらなくちゃいけないんですね。
だからスタートは道徳的な立派な人間になりなさいと。人間として失格だったら話にならないんですね。仏道は、超人の道と言っているんですね。人間を乗り越える。だから乗り越える前に、人間でいなくてはあかんですよ。
それで、感情のままで生きることは誰だってできる。犬猫もやっている。
遺伝子の指令のままで生きることはね。
わたしは、お釈迦様が使っていないすごく乱暴な言葉を一つ使っているんですよ。それは、人間と言ったっても生き物と変わりがないんだ、まず獣から脱出しましょう、と。お釈迦様はそう言う単語を使ってないんです。すごく乱暴な言葉ですからね。
社会の普通の人間として、自分の良心が自分を訴えない状態をまず作らなくちゃいけないんですね。
(質問者の方は)戒律っていうのは一つの、儀式のように感じている可能性がありますね。儀式・しきたり・習慣、それさえできないと進めないんではないか? と。しかし五戒は儀式ではないんです。
この五戒は、自分の弱みと戦うことなんです。自分の獣の精神と戦うことなんですね。
(人間に生まれたのはマレのマレ|人間と五戒(2)に続きます)
東京・法話と実践会 2015.06.14(日)
http://www.ustream.tv/recorded/63713487 よりメモしました。
関連エントリ:人間にだけ備わっているものがあります。それは何でしょうか?【五戒について】
仏教の五戒の場合、「~するなかれ」という上からの禁止ではありません。
酒が脳に悪いというのは真理だから言っているのであって、禁酒を守るかどうかは個人の判断です。その結果は誰にでも平等に起こります。
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