ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

不健康でネガティブ?|生きることは「苦」

「お釈迦様は生きることが苦であると教えられていますが、そうであるならば、人間の存在意義とは何なのかと、解脱以外にないのかと思ってしまいます。それだけが存在意義になってしまうのかと。生きているならば、喜びや楽しみがあるはずで、解脱しか存在意義がないという考え方は、すごく不健康でネガティブな感じになってしまうのではないでしょうか?

 

回答(スマナサーラ長老)

 

お釈迦様は生きることが苦であるとおっしゃいました。

それはお釈迦様が発見した覚りの智慧なんです。ということは、生きることが苦であると人間は気づかない。わからない。わかっているならば生きることに執着がなくなって、解脱に達しているはずなんです。われわれは解脱してないということは、生きることは苦であるとわかっていないという証拠なんです。

あなたの失敗は、わかっているつもり、というところなんです。わかっているつもり、と言うのは誰だってあります。あんただけ間違っているわけじゃなくてね。「そんなのはわかっているんだよ、仏教は」と言う人々は結構迷信へ行きますからね。わかっているのに。

 

生きることは苦であるということは、智慧で発見しなくてはいけない真理です。だから我々は、「ほんとかい、これは」というふうに挑戦するんです。生きることは苦であると言っているのは本当なのかと。

 

昨日、山口から帰ってきたんです。それで空港で、わたしはお土産を買おうかなと思っていたんです。そこへ、ある会社の人がわたしを見つけて話しかけてきて、「ちょっと話をしてもいいですか?」と言うので、あと三十分あったから、「いいですよ」と言いました。

その人はわたしが書いた本に「生きることは苦である」と書いてあったことにびっくりして、「あ、なるほど、そういうことか」とわかったんだと。納得いきましたと。

わたしはその本にこう書きました。「いったん呼吸してみてください。吐いて止めてみてください。一分、二分、止めてみたらどんな気持ちですか? それから吸って、三分ぐらい息を止めてみてください。どんな気持ちですか?」

 

そうすると、耐えられない苦しみが生まれる。これは肉体的な苦しみなんです。耐えられない。耐えたら死にます。だから、われわれは呼吸するたびに「生きよう、生きよう」とする。そのとき何を期待しているんですかね。耐えられない、死ぬ羽目になる苦しみを避けているだけでしょう、生まれた瞬間から。

 

それってわからないでしょう、呼吸することが苦しみであると。あの実験をしなきゃ、どんなものも実験してみるとわかります。

 

たとえばご飯を食べる。おなかがすいているのにご飯を食べないでいてみてください。なんでご飯を食べる気になったのか? あの空腹感が耐え難いんですよ。あの苦しみがなかったら食べないんです。では、食べることをやめてみたらどうでしょうか? 一週間くらい。

死にますね。

 

食べることにもわれわれはすごい苦しみがあって、それをわれわれはなんとか、ごまかそうとしている。問題は、それって終わりがあるのかと? 終わりがないでしょう。

 

それで逆も実験するといいんです。

おなかがすいて食べる。食べて、食べて、食べて……、ものすごくたくさん食べたらどうなる? 食べるのをやめなかったら死にますね。筋肉はもしかすると、あまりにも耐えられなくて、反撃として吐いちゃう。もし筋肉が弱くて、吐くという反撃をしなかったら死にます。

その人は、食べることがいかに苦しみを作るのかと経験するんです。

 

呼吸は楽だと思っているでしょう? では、やってみてください。十五分間深呼吸をしてみてください。どうなるのか? 倒れます。

ときどき、われわれは手を上げたり、どこかを掻いたりするでよう。なんで? 苦しみがあるからなんです。

面白いことは、それがないと命がないんです。だから生かしているパワーは「苦」なんです。神ではないんです。よくよく見ると、高いレベルから見ると、存在するのは「苦」だけなんです。だから「わたし、わたし」と言うのは、苦しみで「わたし」と言っているんです。それを発見した人は、「まあ、いいや、こんなのは」と執着を捨てるんです。

 

勘違いは、苦しみに執着することです。「生きていきたい」と思うことです。生きていて、あんた何を期待しているのか? というと、「食いたい、寝たい」そんな程度でしょう。どこかに旅行へ行きたいとか、散歩に行きたいというそんな程度のことしか何もやっていないでしょう。そちらも調べていない。「生きていきたい。死にたくはない」は何なのかと。死って何なのかも調べていないし。

 

「生きていきたいというけれど、あんた、何をするのか?」というと、毎日ワンパターンで生きているだけでしょう。それは苦しみをごまかすだけ。

 

今、説明したのは肉体の苦しみだけです。それより恐ろしい苦しみは、精神にあるんです。

悩み、落ち込み、プライドが傷ついたときの気持ち、どうですかね? 人に派手に侮辱されたら、その苦しみは何年もちますかね? 人に殴られてケガしても、一週間、二週間程度でしょう。だから精神の苦しみはものすごい大きいんです。

 

そこで人間にとっては、俗世間的にみると、苦もあって楽もあります。仏教的なレベルでは「苦」です。だから一般的にみると、テレビを見るのも楽しい、おいしいご飯を食べるのも楽しい、幸せ。それは否定していないんです。それはそんなもんですね、と。

 

それはどういうことかと言うと、肉体と精神の苦しみが、今味わっている苦しみが、早くサッと消えちゃう。消えても新しい苦しみが生まれるだけ。だから、苦しみが消えたことを、われわれは楽しみと思っているだけ。

空腹感がありまして、その苦しみを消さなくちゃいけない。そこで、口に入れたものは、おいしく感じるんです。「ああ、おいしいものを食べられてわたしは幸せだ」と思うのは妄想です。では食べ続けてください。おなかがいっぱいになってからは、同じ食べ物でもおいしくないんですよ。まずいんです。気持ち悪いんです。

だから、なんでおいしく感じたのかと言うと、おいしく感じる間は、空腹感が減っていくんです。苦が減る間は、楽しいと、人間が思うんです。それがみんな言っている「楽しみ」なんです。

 

音楽を聴いて楽しいと思うならば、じーっと聴いてみてください。自分のものすごく好きな曲を一つ、繰り返し繰り返し。みなさまの携帯ででも、リピート機能にしてじーっと聴いてみる。ものすごくうるさくて気持ち悪くなってくるんですよ。

ちょっと疲れたりイライラしているとき、好きな曲をちょびっと聞くと、苦しみが減る間は楽しく感じますね。

座っているときも足を崩して「あ、楽だ」と、では崩したままでいてください。また苦しくなる。

 

そういう実験をしない人にとっては、あんまり生きることは苦であるとわからないんですね。生きることが苦であるならば、生きることに意味もないんです。そんなにはしゃいで、そんな真剣に、死に物狂いで、生きよう、生きようとしているのは何なのか。それで、プラスアルファでさらに苦しみが生まれるだけ。生きようとして苦しみが増えるだけだから。で、答えは、「執着を捨てなさい。かかわるなよ。放っておきなさい」

放っておけないところは、煩悩というんです。放っておいた人には煩悩がないんです。

 

俗世間の次元には、当然、喜怒哀楽はあります。一人ぼっちで、「ああ、寂しい」と孤独感があるところに友達ができたら、「ああ、幸せ」とそんな程度の、その孤独感の程度に合わせるだけ。わたしは孤独感はないんだからね。だれかと話して仲良くなったというのは、楽しくもなんともない。孤独感がある人にとっては、すごく面白いでしょう。電話かけるわ、メールするわ、あれやこれやと。

 

みんな、ツイッターフェイスブックに依存しているでしょう。わたしはチラチラと見たっても、人間の苦しみしか見えないんです。だからそういうものには依存しません。

 

だから、生きることは苦であるというのは、否定的とかネガティブとかじゃないんです。生きることに価値があると思いたい、その前提で考えるとすごく否定的に見えるんです。

客観的に科学者が観察するみたいに見ると、価値が入れられません。区別の世界でも、「これがいい、これが悪い」というのは成り立たないでしょう。

ただ、これとこれが違うとみるだけ。

 

質問者「長老は、生きることに価値を置くことはよくないという見解をお持ちで……」

 

よい・よくない、というレベルではなくて、「価値があるのか?」と調べてみるんです。わたしが「生きることは苦だ」と言ったら、「ホントなのかい?」なんですね。そこが必要なんです。わたしの話に乗せられたちゃうと、ただ操られただけで意味がないんです。わかったことにならないんです。

 

わたしたちが強烈にしゃべるのは、修行を始めると、みんな「やりたくない」という怠けが割り込んでくるんです。そこでわれわれは強烈に言って、やる気を引き起こす。ときどきわたしの言葉が強すぎちゃって、もともとあったやる気もなくなっちゃうことがありますけど(笑)

 

それ以外は、わたしの言葉をそのまま鵜呑みにしなくてもいいんです。「ほんとかい?」というところがないと、自分で発見しないでしょう。わたしは「生きることに何の価値もない」と、区別世界で語っているんです。

 

あなたも、その区別能力をつけなくちゃいけないんだからね。それでご自分が「ほんとかい、これは?」と自分で調べていくと、ネガティブになるとかポジティブになるとか、そんなのないでしょうと、そういう発見が面白くなっていくんです。

幸せでも不幸でも、どちらでもなく、発見自体が面白いんです。感動するんです。

 

最終的には、これも比較して言いますが、無知が暗いんです。苦しいんです。だから発見すると楽しみが生まれてくるんです。世界でいつでもあることでしょう。何か発見して楽しくなっちゃう。子供が算数をやってみて、答えがわかったところで楽しいでしょう。

だからできないこと、知らないことが人間にとって苦しみなんです。だから仏教で言うでしょう。無明だと。すべての問題の原因は。無明とは知らないことです。

 

「ほんとかい?」という言葉を使って調べていくと、無明がどんどん減っていくとその分楽しみが生まれてくる。これはネガティブ・ポジティブとかいう世界じゃないんです。

 

東京法話と実践会 2015.07.12

http://www.ustream.tv/recorded/67329399 40:00~01:02:00(期間限定公開動画)よりメモしました。

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thierrybuddhist.hatenablog.com

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