ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

悪口を言われても平気になる方法

質問

「自分は、人に悪口を言われるとすぐ傷ついてしまうのですが、悪口を言われても平気になる方法はありませんか?

 

回答(スマナサーラ長老)

 

あります。ただ平気でいる。

 

人が何を言ったってもいいんじゃないですか?

痛くもかゆくもないでしょう。どうぞご自由に、と。

 

問題は、自分に起きることはあなたの問題なんです。

人が悪口を言うとあなたは思っているんだけど、世の中で、人はいろんなことをしゃべりますよ。これはなくなりませんよ。人間の世界だから。自分のことを知っている人々は、いろんなところで自分のことをしゃべりますよ。

 

もし一言も自分のことをしゃべらないならば、これは自分のことを認めてないということなんです。忘れている。

あなたのお母さんでも、あなたのいないところであなたのことをいろいろとしゃべっているんですよ。あなたも知らないおばさんたちと。「うちの子は、あーやこーや」とかね。あなたが絶対に言ってほしくないあなたのことを、ずっとしゃべっているんですよ。誰にもばらしたくないこともありますけどね。お母さんは知っているんだからね。へっちゃらであなたが顔も見たことがないおばさんたちに言う。

 

たまに、そのおばちゃんに会うと、自分のことをなぜか知っているんですね。

 

だから、人間の社会というのはそういう社会なんです。

 

いろいろ言われるというのは当たり前で、それを悪口としてとってはいけないですね。普通だ、と。普通に、自分に対する情報を言っているだけですね。

 

根拠のないことを言われたら、それに抗議するのは構わない。

 

わたしのお寺にむかし、ちっちゃな子供がいて、わたしはすごくからかうんですね。子どもだから変なことをして、ちょびちょびと失敗もする。大人からみればそれはどうしたこともない。でも、いろいろ気をつけなさいと言わなくちゃいけないし。

わたしは、そういうことを面白おかしくしゃべる。その子は知らんぷりして聞いているんですね。しかし、ときどき攻撃してくるんです。「いえ、違いますよ!」と。

 

それはどんなときかというと、自分の話が大げさに言われていて、聞く人がそのまま信じたら困る、と言うときだけ「いえ、違いますよ!」と。

知っている人の間でいくら大げさに言っても、そこ子は知らんふりしている。

だから、そのまま信じられてしまったら大変だなと思うときは「いえ、違いますよ!」というのは構いません。

 

だいたい、自分のことを言われて気になるときは、自分の言動に自信がないときですね。そこは、精神的な病気になります。危険な気持ちなんです。

 

人はただしゃべっているだけ。悪口でもなく、褒め言葉でもない。

お母さんがほかのおばさんに話す場合も、一方的にわが子を讃嘆すると相手からやられますから、それはしない。まぁ、ふつうに、あることもないことも言う。それで「ああ、そうですか」で話は終わります。

 

それを悪口言われているんだ、と受け取っちゃうと自分の人生が壊れてしまいます。ただ単に、自分の存在を認めていて、それについて自分の判断をしゃべっているだけ。わたしも、人のことをしゃべるときは、その人に対するわたしの判断をしゃべっているだけです。悪口ではないんです。

 

人の悪口を言う人間もいますけど、その人間が病気ですよ。気にする必要はありません。

ふつうは、悪口でもなく褒めることもなく、ただ自分の判断を言っているだけです。

 

問題は、自分のことを他人が完璧に判断できない。それだけです。

だから誰の話を聞いても、「ちょっと違うんじゃない」と言う気持ちになるんです。

そこは理解してください。

 

四人があなたのことをしゃべるなら、その四人に見えた「あなた」なんですね。だから一部しか見えてないんです。四人の話を聞いても、それぞれに「違います」「違います」と言う羽目になっちゃう。

 

例えばある人が、「この人は口下手です」。ほかの人は「なんかずけずけ言う人だ」と言うかも。

もしかしたらその両方の性格がある。普段は黙っていて、言いたくなったらドカーンと言っちゃう。一人の人の性格なんですけど、周りの人がその人から受け取っている判断をそれぞれに言っているんです。

 

だからわたしたちには、人間の一部しか見えない。

見える側面から自分で判断して、お互い話したりしているんです。

 

よくあることは、わたしについて他人が語ることを調べてみたんですけど、一つも当たってないんです。全く当たっていないかと言うと、そうでもない。でも完璧には当たっていない。

 

だってわたしは複雑な性格を持っているんだから、みんなに見えるのはその一部だけです。こちらにいる人々が知っているのは、説法しているスマナサーラだけなんです。講演なんかを準備しているわたしを、誰も見ていないんだから。本を編集しているスマナサーラを知っているのは何人かだけなんです。

 

たとえわたしの脳の使い方にしても、そういうことで、人はその一部しか知らないんです。そういう人も、自分が知っている範囲のスマナサーラを言っているだけなんです。

 

悪口は放っておいてください。

人間にはしゃべる自由があります。

 

しかし、言っていることを聞いた方がいい場合もあります。もしかすると、自分を直すために必要なポイントが、なんのことなく埋もれているんです。そこは直した方がいいや、とか。

 

というわけで、本当は悪口を言われたほうがいいです。なぜならばわれわれは不完全でしょうし、どこを直せばいいかと分からないし。

「あなたのこれが悪い、あれが悪い」と言われると、考えて、自分でできる範囲で、そこを直していけばすごくいい人間になっていきます。

だから、かえっていいんです。直すべきことがあるんだと。どうせありますからね。

 

そういうふうにアプローチしてください。

 

関西月例冥想会 2015.09.21

https://www.youtube.com/watch?v=R7k8_Fvqueg

 30:00~38:00よりメモしました。

f:id:thierrybuddhist:20151008150923j:plain
すべての「説法めも」を読むには:【目次】説法めも