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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

「一切の感覚が苦である」とはどういうことですか?|Buddha’s brain

質問者

「『一切の感覚が苦である』とはどういうことですか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

お釈迦様は、科学的に説明しています。最近はBuddha’s brain*1

という本が出ていましてね、できれば英語で読んでみてください。日本語訳はちょっと仏教用語がね……。(筆者注:日本語版の場合、自分で仏教用語を当てはめながら読むとよいらしい)

 

英語版は、脳科学の専門家の二人が、「こころと脳の成長の仕方は、お釈迦様しか教えていないんだよ」と、ものすごい冥想の達人たちで、医学的に科学的に、どういうからくりかとものすごく丁寧に説明しています。脳科学的にみても、ものすごく怯えがあって、「戦うか、逃げるか」というそれだけで生きているんだよと。そういうふうに脳科学的に説明してから、「それはお釈迦様が『渇愛』と教えています」とぴったし書いている。

 

しかし、生き続けるためにずーっと感覚があるんですね。その感覚が苦なんですけど、お釈迦様はあまり、「感覚は苦であると言わないほうがいい」と、あるお坊さんに注意したことがあります。「だめだ、お前は」とものすごく厳しく注意したことがあります。

 

なぜかというと、渇愛のほうに引っかかってほしいんですね。だから、これはもう、相当な智慧なんですよ。「感覚を消そう、消そう」としたところでは、覚りに達しません。感覚を消そうとしても生きている間は感覚がある。しかし、生きている間、渇愛は取り除けます。渇愛を取り除いたとたん、こころから、恐怖感・怯えが消えちゃうし、同時にほかの煩悩も消えてしまいます。

 

あの本に書いてあるのは、そういうふうな冥想をやっていると、必ず脳には変化が起こりますよ、ということです。脳は、われわれも動物と同じく脳幹というものがあって、みんな脳幹は同じですね。ネズミもわれわれも、みんな。そこはすごく汚くて、感情・怯え・渇愛でそれだけで、悪い物質しか作らない。しかし、成長していくと、理性やら論理やら、そこまで怯えなくてもいいんじゃないかと現実を見られる脳が、あとから出てきて、大脳新皮質という成長なんですね。しかしいまだに脳幹が、すべて管理しています。たまたま人間の場合は、大脳新皮質のところから判断してあげて、論理的に具体的に物事を判断しようとするんだけど、あまり勝てないんですよ。感情が支配しちゃうんです。

 

例えば、原発と同じです。原発でエネルギーができるぞというところまではいいんだけど、もうちょっと理性を使ったならば、これは使えるものじゃないやとわかる。もし使うならばもっと研究したほうがよかった。しかし、感情が出てきて、動物が先に来て、管理したんですね。湯沸かし器をつくりましょうよと。

 

そういうわけで、われわれには、理性やら判断能力があるんだけど、動物がいつでもそれを抑えて管理してしまうんですね。冥想や覚りというのは、動物が理性を管理するという仕組みを逆にすることを、本では脳科学的に説明しています。

 

そこで、理性と道徳、落ち着いていること、物事をしっかりと、観察することを、大脳新皮質で全部支配して、脳幹まで管理する。そうするとOKで、信じられない現象が起きますよ、というふうに説明しています。

著者二人はすごく気をつけてね、脳みそがこころだよ、ということは言わないんですね。それを言うのは日本だけかなあと。彼らは、脳とこころはやっぱり別に扱ったほうがいいと。しかし、医者として体の中のどんな部品かと調べて、脳を分析したということです。

 

あの本で、四聖諦、八正道、捨(upekkhā・ウペッカー)、慈しみ、それらは欠かせませんよと、脳を開発する場合は、と書かれています。だから、一番最後に出来上がったところ(大脳新皮質)が一番ありがたい部分で、それで動物的な脳を押さえておきなさい、と。下(脳幹)から上(大脳新皮質)へ信号を送らずに、上から下へ送りなさい、と説明しているんですね。

 

なるほど、とわたしも思いましたけど、やっぱり渇愛をなくすんですね。それは、俗っぽく言えば、自分の動物を倒しておくんです。それで、理性のある人間の脳が残るということです。今は何を学んでも、結局動物ですよ、生きているのは。怒り・欲・嫉妬が先に出ますからね。

 

感覚が苦ということは、客観的な真理で実践にはそれほど役に立たない。だからどうするのかい? と。例えば体に感覚があって、それが苦なんですけど、だからどうすればいいのか? どうすることもできんでしょう。気をつけるのは、渇愛が、感覚から生まれるんですね。それで気をつける。

 

何か見て、それから渇愛が生まれる。vedanā  paccayā taṇhā(ヴェーダナー パッチャヤー タンハ―) と、十二因縁に書いてあるでしょう。vedanāは管理できないんだけど、vedanāによってtaṇhāが生まれることはストップできます。vedanāというのは感覚、taṇhāは渇愛。お釈迦様は、この渇愛をなくすことを、制御することを教えるんです。ものすごく微妙に語っています。感覚をなくせ、ではないんです。*2

(おわり)

 

*この記事は以下の音源よりメモしました。

関西定例冥想会 2011.03.11

■ 仏教は、経験する苦しみに比較すると、経験する楽しみは決して割に合わない ということへの質問■

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1686205.html

 

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参考法話(長いけど!→):パーリ経典講義「相応部六処篇2受相応2独坐品独坐経」(Dhammacast) - Theravada Online ゴータミー精舎日記

*1: 

Buddha's Brain: The Practical Neuroscience of Happiness, Love, and Wisdom

Buddha's Brain: The Practical Neuroscience of Happiness, Love, and Wisdom

 

*2:「因縁の教え Paticca Samuppâdo」【概要】『因縁の教え(順観・滅観)』は、無明・行・識・名色・六処・触・愛(渇愛・取(固執)・有・生・老死の「十二縁起」を順逆に観察し、因果の道理を明らかにした経典。(引用・パーリ語日常読誦経典 目次

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