ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

パティパダー2023年4月号「初期仏教のエッセンス」特別掲載 解脱の喜び――釈迦牟尼仏陀「歓喜の言葉」を読む アルボムッレ・スマナサーラ長老

十二因縁と「歓喜の言葉」

 

お釈迦様は、世の中の現象が因果法則によって成り立っているということを覚って、解脱に達しました。その因果法則をわかりやすくするために世間の概念を当てはめて、十二因縁(十二支縁起)として語りました。テーラワーダ仏教の伝統では、お経を唱えるとき、十二因縁を唱えたら、次に必ずaneka jāti saṃsāraṃ【アネーカ ジャーティ サンサーラン】…から始まる「歓喜の言葉(Paṭhama udāna【パタマ ウダーナ】)」という偈を唱えます。因縁の教えはパーリ語でPaticca samuppādo【パティッチャ サムッパードー】と言います。

ここでは、ものごと(現象)は条件によって一時的に現れるだけであると教えています。覚ったお釈迦様はともかく、一般常識では「ものごとは確固としてある」と思うのが当たり前です。そこに「ものごとが〈ある〉とは言えないのだ」と主張したところで、誰も納得するはずがありません。「これは大変なことになってしまった……」とお釈迦様は思ったことでしょう。

そこで、「はあ、これは教えるよりは黙った方が楽ではないか」と考えるほど、お釈迦様自身が因果法則という真理の難しさに驚いたのです。そこまで深遠な真理を、それも自分一人の力で覚ったのだという解脱の喜びを、お釈迦様は「歓喜の言葉(udāna【ウダーナ】」という形で唱えました。Udānaとは、成道(解脱)から般涅槃に入られるまでの間、お釈迦様が折に触れて発表した詩のことです。これから読むPaṭhama udānaはダンマパダ(一五三、一五四偈)などに収録されています。それでは、さっそく読んでいきましょう。

 

輪廻転生はホトホト疲れる

Aneka jāti saṃsāraṃ, sandhāvissaṃ anibbisaṃ;【アネーカ ジャーティ サンサーラン サンダーヴィッサン アニッッビサン】無数の生涯にわたり、あてどなく輪廻をさまよってきた、Aneka jāti「無数の生涯」とは、いわゆる輪廻を意味しています。生まれて、死んで、まだどこかで生まれて……。「私」が死んで生まれるということではなくて、「私」と一時的に言い表している生命エネルギーが、現れては消え、現れては消え、というサイクルを延々と繰り返しているのです。「私」が死んで消えたと思えば、また新しい「私」がある条件下で成り立って「俺こそ世界一だ」と思って頑張っていたら死んでしまって、また別な所で別の「私」が現れて、また馬鹿なことをやって生きていて……と、きりがないのです。

今も我々は人生に疲れているのに、死んで終わることができずに、また人生プログラムを最初から「リピートしなさい、リピートしなさい」と追い立てられています。いくら頑張って生きても、いくらやっても、「はい、リピート」「はい、やり直し」と永久的にダメ出しをされるのです。

インターネットで買い物をするとき、個人情報やクレジットカード情報を入れる場合もあるでしょう。そのときは名前、生年月日、性別、カード番号、有効期限等、パソコンやスマホの画面に入力するはずです。もし制限時間内に入力し終えないと、今までせっかく打ち込んだものがパーになってしまいます。そうしたらもう一度最初からアクセスして、パスワードを入れてと、また一からやり直しです。

インターネットの買い物なら、きちんと素早く情報を入力すれば問題ありませんが、人生のプログラムはそうはいかないのです。生まれてからずっと頑張って、結婚して子供を育てて、孫の顔も見て、子供たちに財産を残して大往生しても、「はい、やり直し」とまた振り出しに戻されるのです。そして再び同じような苦しい人生プログラムで戦いながらいろんなことをやって、やっと生きてきて、ついに年老いて死んでしまったところで、「はい、やり直し」となると、それはもう疲れるでしょう。

しかし面白いことに、誰も「疲れたからもうやめた」と輪廻転生から離脱しようとしないのです。お釈迦様だけが「この輪廻転生はホトホト疲れるのだ」と自ら抜け出しました。そうやって理性ある人は、パソコン画面に情報データを入力するような輪廻をやめるのです。「俺はインプットしないよ」と。せっかくインプットしても、人生の場合は否応なく「はい、やり直し」と突き返されてしまいます。それなら入力する意味がないでしょう。その当然の事実が、一般の人になかなか分かりません。誰しもが訳もわからず暗闇の中で右往左往するだけの生き方をしていました。しかし「何かがおかしい」と真理を探すお釈迦様に、ついに光が現れました。つまり因果法則を発見したのです。そこで「ああ、これはデータをインプットしても意味がないものだ」と分かったわけです。

 

プログラムに嵌められて生きるだけ

我々は日々、何をして生きているのでしょうか? 実際には単にデータをインプットしているだけなのです。食事を作るわ、買い物をするわ、洗濯するわ、掃除をするわ、仕事に行くわ……。そしてまた次の日も朝ご飯を作るわ、掃除機をかけるわ……、このように一生懸命データをインプットするようにルーティンワークをこなしています。それができなくなったら、病院に運ばれて死んでしまって、それからまた自分の業によって「はい、やり直し」とどこかへ生まれさせられます。

もし牛になったら、牛のプログラムでデータをインプットします。ミミズになったら、ミミズのプログラムでデータをインプットします。神になったら神のプログラムでデータをインプットします。牛、ミミズ、神としてのプログラム通りに生きて、寿命が終わったら死んでしまうのです。そしてまたどこかに生まれて、もう一度データをインプットしてください、というのが輪廻転生です。

つまり他宗教の信者さんや一般人は来世に生まれるために頑張っているのです。この人生をインプットし終えたら、次の生に再び最初からインプットすることを望んでいるということでしょう。あまりにも馬鹿馬鹿しいことではないでしょうか? 例えば一千項目あるアンケートがあるとしましょう。一つひとつコツコツと回答して、ようやく全部完了、送信ボタンをクリックします。画面には「ありがとうございます。それでは再び第一項目からインプットしてください」と、新しい一千項目のアンケートが表示されるのです。

そこである宗教は「死んでから天国に行ける」ことにしようとしたり、仏教文化なら極楽浄土やら大日如来やらいろいろな概念を作って、そちらに行こうと言い出したりします。もし極楽浄土などがあるならば行っても良いのですが、そんなものがなかったら困りますね。実際に、お釈迦様が「極楽浄土がある」などと言ったわけではありません。そうしたものは、のちの大乗仏教の方々が考えて作った概念に過ぎません。しかし、ふざけて考えたものではなく、大乗仏教の方々は相当なエリートでしたから、真剣に哲学的に思考した結果です。大日如来について、私は宗教的には異論を唱えざるを得ませんが、哲学的には宇宙法則を指しているのです。ただ、大日如来というキャラクターを選択してしまったのは残念なことでした。

 

仏教が説く宇宙法則

仏教で説く宇宙法則は、物質の法則よりも心の法則に焦点を当てています。その上で、物質と心の二つを合わせた法則・システムがあるのだと説明しています。お釈迦様はそれを四つに分類しました。Kamma-niyāma【カンマ ニヤーマ】(業の法則)、bīja-niyāma【ビージャ ニヤーマ】(種の法則)、citta-niyāma【チッタ ニヤーマ】(心の法則) 、utu-niyāma【ウトゥ ニヤーマ】(時節の法則)の四つの法則です。

この四法則が合わさって宇宙法則として回転しているのです。それに昔の大乗仏教のエリート僧侶が大日如来という単語を当てはめました。「如来様だ、ありがたい、ありがたい」と拝む人もいますが、ありがたいどころではありません。この宇宙法則のせいで我々は、延々と繰り返されるプログラムを否応なくインプットし続けなくてはいけない事態に陥っているのです。この四つの法則は、地球の自転と同じ原理です。法則なので誰かがこれを蹴っ飛ばして回している訳ではありません。法則によって回転しているのですから、止めたくても止まらないのです。

 

コピーし続けるという法則

Bīja-niyāma(種の法則)とcitta-niyāma(心の法則)というのは 遺伝子と同じ法則です。生命は現在の状態をコピーして、同じパターンを作っていきます。コピーしたものが壊れると、またもう一つコピーを作っていくのです。我々の身体の場合は、最初に一個の細胞で遺伝子ができあがってしまうと、その遺伝子のコピーによって死ぬまでずっと遺伝子が持つプログラムが続いていきます。これが仏教で説く種の法則です。

物質に属する遺伝子に限らず、心の働きの場合もコピー機能が作用します。直前と同じような思考を、今の瞬間にも考えるのです。料理を作る時でも、前と同じやり方でコピーを作り出していくのです。前と同じように見えても、実際は似ているだけで同じものではありません。決して同じものは作られないからです。それは皆さんがつい誤解するところで、コピー機で原稿をコピーしたからといって全く同じ原稿ではないことと一緒です。

では「全く違うものでしょうか?」と聞かれると、「うーん」と考えてしまいますね。その場合は 「この原稿は原本ではなくコピーです」と言った方が適切です。このように我々は仕事をする時でも、喋る時でも、考える時でも、実は常にコピー機能を使っているのです。例えば会話中に、「え? もう一度言って下さい」 と聞き返されたら、できる限りリピートを試みますが、結局はそれもコピーです。最初に言った言葉と声色と、全てが同じではありません。

原稿を読み上げる場合、もしも「ちょっと発音が違ったのでもう一回読み上げて下さい」と言われたら、間違った所を訂正してやり直すでしょう。やり直した場合は、もう違う読み上げになってしまうのです。コピーとは、完璧に同じものを作り出すことはできないという性質を持っています。変わらないように見える遺伝子も、実際はコピーによって変化しているのです。心になると、物質よりももっと激しく、コピーを作るたびに目まぐるしいスピードで変化してしまいます。決して同一のままではいられないのです。Bīja-niyāma(種の法則)とcitta-niyāma(心の法則)について、このように理解してください。

 

宇宙法則を拝んでも意味がない

Utu- niyāmaを「時節の法則」と訳すのは、人間に分かりやすくするためです。宇宙を見渡すと、確かに我々が「時節」と感じる現象はあります。例えば太陽にしても、ずっと同じ力で燃えているわけではありません。爆発したり、猛烈に燃えたり、ゆっくり燃えたり、いろいろな燃え方をしています。そして最後に極限に激しく燃えてしまって、その影響を受ける範囲の生命はさまざまな死に方をしてしまいます。太陽には太陽のパターンがあり、惑星には惑星のパターンあり、星団には星団の、天の川と呼ばれる銀河系には銀河系のパターンがあるのです。これを我々人間のスケールから見れば、繰り返し訪れる「時節」という概念で捉えることができるでしょう。

もっと身近な例では、季節によっても我々は変化させられています。夏はいろいろなところへ遊びに行ったりしても、冬に同じような行動は取れません。雪に閉ざされて家の中で生活するかもしれませんし、雪がなくても寒くて屋外で遊ぶ気にもならないかもしれません。まるで全く別人のように振る舞うでしょう。このように時節によって我々も変わるのです。

 

Kamma-niyāma(業の法則)について、今回は説明を省きます。シンプルに「因果法則

のことである」と理解しておいてください。

これら四つの宇宙法則は、拝むものではなく、非常に恐ろしい法則と言えます。ですからこの法則・アルゴリズムから脱出するべきなのです。このアルゴリズムはいつでもループを作り、データを入力し尽くし、最後まで辿り着いたと思ったら、そこがまたデータを入力する行【ライン】になっています。人はパソコンに向かって何十年もデータをインプットし続けたら、いつか「これで終了です。おめでとうございます」というメッセージが出るだろうと思って頑張っていますが、裏にあるアルゴリズムのラインを読んでいないのです。

 

終わりなき探究に嫌気が差した

また、人が長い年月をかけてデータをインプットし続けるならば、その人自身にもある問題が潜んでいます。実はそこに渇愛があるのです。何万回とキーボードを打ち続けてデータインプットしたら、「おめでとうございます あなたは大成功しました」と言ってもらえるだろうとか、何かご褒美をもらえるだろうといった期待が潜んでいます。その状況をお釈迦様はたった一行で喝破しました。Aneka jāti saṃsāraṃ「無数の生まれで」 sandhāvissaṃ anibbisaṃ 「あてどなくやり続けてきました、データを入力しまくりました」と。Anibbisaṃとは、「やってもやっても、終わりがなかった」という意味です。次の偈に進みましょう。

 

Gahakārakaṃ gavesanto, dukkhā jāti punappunaṃ.【ガハカーラカン ガヴェーサントー ドゥッカー ジャーティ プナップナン】

家の作者を探し求めて。更に更にと、生まれ変わるのは苦しいことである。

ということは、お釈迦様はプログラムを作った人を探していたのです。探し出して、「先生、このプログラムはちょっと問題がありませんか?」と言いたかったのでしょう。「家を作る人」、この「家」というのは命のことです。再び生命として生まれることは大変苦しいことなのに、なぜ「家」を作るのかと疑問が湧いたのです。いくらデータをインプットしてもまた再び「インプットしてください」と出てくるだけの繰り返しで、もう嫌になったわけです。「何だ、このシステムは!」と。

 

システムの作り手を発見

Gahakāraka diṭṭho'si, puna gehaṃ na kāhasi;【ガハカーラカ ディットースィ プナ

 ゲーハン ナ カーハスィ】

家の作者(渇愛)よ、汝の正体は見られたり。汝が家屋を作ることはもはやあるまい。

そしてついに、gahakāraka, diṭṭho'si「見つけましたよ」と、「システムのプログラマーを見つけました。命を作る輩を見つけましたよ」と高らかに宣言したのです。

Puna gehaṃ na kāhasi「もう二度とあなたに家を作ることはできませんよ」とさえ言っています。つまり、エンコーディングリストを手に入れたら、永久的にループを繰り返す、あの一行を取り外せば良いでしょう? プログラムを書いたコードが分かれば、if 何々,then 何々(もし何々だったら何々せよ)という一行を見つけ出して削除【デリート】できるのです。

 

輪廻プログラムの破壊

 

Sabbā te phāsukā bhaggā, gahakūṭaṃ visaṅkhitaṃ;【サッバー テー パースカー バッガー ガハクータン ヴィサンキタン】

汝の梁(煩悩)はことごとく折れ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。

Sabbā te phāsukā bhaggā「汝の梁(煩悩)はことごとく折れました」。つまりシステムがループするプログラムを壊してしまったのです。それから、gahakūṭaṃ visaṅkhitaṃ「要の部分――組み立てたプログラムの元になって、そこからいろいろなサブ・プログラムに繋がっていた機能――もしっかり破壊しましたよ」と説明しています。

 

渇愛の滅尽

 

Visaṅkhāragataṃ cittaṃ, taṇhānaṃ khayamajjhagā.【ヴィサンカーラガタン チッ

タン タンハーナン カヤマッジャガー】

形成するはたらき(行)から心は離れ、渇愛を滅ぼし尽くした。

さらに、visaṅkhāra gataṃ cittaṃ「今は心に何も行【サンカーラ】(衝動)が無くなりました」と、心の状況を語っています。つまり、心の中ですべての概念・観念・感情、あらゆるものがきれいに消えてしまったということです。

そして最終的に、taṇhānaṃ khayam ajjhagā「渇愛を無くしました」と宣言します。輪廻転生するのは、この渇愛のせいです。渇愛があると現状に対して「もっと何かあるはずだ」と思ってしまうのです。生きることは苦なので、その苦を無視したい我々に渇愛が生まれるのです。例えば料理の塩味が足りない時、どうしますか? 「ちょっと塩をふりましょう」と塩の瓶を手に取るでしょう。そこに渇愛が現れているのです。「渇愛だけを理由に、人々は輪廻転生するのだよ」とは、お釈迦様が発見したことの結論です。

 

偈の二行目に、gahakārakaṃ gavesanto「命を作る人を探していました」という表現がありました。他宗教の場合、命を作る人は神様だとされていますが、お釈迦様もその「命の作成者」を探していたのですね。そしてついに作成者、他宗教で言うところの「神様」を見つけたのですが、それは自分の外ではなくて、自分の心にいたわけです。命を作る「渇愛」は、心にあったのです。

 

無明の生き方を乗り越えた凱歌

 

Gahakūṭaṃという語は、日本語で「屋根」と訳されていますが、正確には屋根というより梁と梁をつなげる部品のことです。昔の建物の上部には、少し出っ張った箇所があって、大きい梁を全てそこにつなげておきました。それを壊してしまったら、どんなに立派な梁があっても、もうつなげる所がないので建設不可能になります。つまり gahakūṭaṃは無明のことを表します。世間では、皆が言う通りに勉強してご飯を食べて運動して、結婚して子孫を作って死ねば、「それこそ正しい人生だ」と褒めるかもしれません。しかし仏教は、それはまるで明かりが無い暗闇の中の人生、つまり無明の生き方だと説きます。残念ながら無智そのものだと指摘するのです。「では、無智ではない別の生き方があるのか?」ということをお釈迦様が探究して、発見した真理をウダーナとしてうたいあげたのが、「歓喜の言葉」でした。

 

生きる苦しみを消し去る単純な方法

 

皆さんも個人個人で、この渇愛を無くす経験はできます。心に妄想・思考・あれこれと悩みがなくなってしまうと、とても楽に過ごせます。「あれをやらなくちゃ、これをやらなくちゃ」という衝動がなくなると、心は穏やかで楽を感じます。「次にあれをやらなくてはいけない」と常に念頭にあるとストレスがつきものです。もし何かの都合で実行できなかったら、追加のストレスを感じると思います。皆さん、ちょっとイメージしてください。あの「やらなくては」という一つの概念が消えたらどうでしょうか? どれほど気楽かと思いませんか?

「やらなくては」という強迫観念を持たなくても物事を行うことはできます。その場その場で、必要なことはできるのです。「ああ、やらなくては」という感情を消したまでのことです。ただそれだけのことで、どれほど気分が軽くなるのか、どれほどリラックスして微笑むことができるのかと、実際に試してみれば分かると思います。

パソコンで一個のプログラムを削除するのはいとも簡単でしょう。プログラムのアイコンを選択して、ごみ箱に移動するだけで削除完了、いたってシンプルにできます。同様に、生きる苦しみを消し去るのも単純なことです。渇愛を破壊し尽くせば苦のループは終わります。そういうふうに、お釈迦様が我々に涅槃の道を教えたのです。

(了)

-------------------------

パティパダーは日本テーラワーダ仏教協会から毎月20日頃発行されています。

一冊600円でご自宅まで配送。お問い合わせは事務局まで♪♩♪♩

お問い合わせ窓口 - 日本テーラワーダ仏教協会