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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

無意識のうちに人をジャッジしてしまう

説法めも 作業工程2(ヴィパッサナー)

質問

「人と会ったり話したりするときに、無意識のうちに人をジャッジしてしまいます。どうしたらなくなりますか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

あ! これは相当大変です。われわれは原始の脳で生きているんだから。しゃべったり考えたりは大脳でしていますけど、そこをいじっているのは原始脳ですね。原始脳はデータはいる前に判断しています。「こいつは良い人、こいつは悪い人」と。しかしデータはないんです。原始脳にはそれしかできないんですよ。そこはやっぱり、知識で理性で、管理しなくちゃいけないんですね。判断してしまったところまでは、あなたにもちょっと避けられないと思います。

 

それで、それは原始脳がやったものだから、もうちょっとデータをいれて判断します、原始脳の判断には頼りませんとする。もうちょっとプラスアルファで判断しなくてはいけません。「原始脳で判断している」と気づくだけで、かなりダメージがなくなります。「あー判断しているんだー」「あーまた判断しちゃった」と、判断していることにしょっちゅう気づいてください。それだけで、なんとかなると思います。悪い結果になることだけはなくなります。判断する癖がそのままあっても、発病しない。それも、やっぱり脳を開発するまでは、主観でデータがないくせに判断してしまうということはなくならないんですね。

 

おもしろいことに、先に判断してからデータを取る。おかしいでしょう? 冥想なんかをやると、判断はしない。データを取る。データを取って、要求に応じて判断する。これはずいぶん後の話なんです。なんでも判断する必要はない。脳が開発したら、起こるデータは大体知っている。知っているんだけど、自分と周りの人々に関係のあることに限って、「じゃあこうしましょう」というふうに判断をする。判断は後に来る。

 

一般の世界では判断は先に来る。それから言い訳を考える。データを取るっということは単純にした判断がいかに正しいかとデータを取ることだから、本来のデータにはならない。「俺は正しかった」と言うためにデータを探しているんだから。

 

一般世界のすべての人間の生き方は、その生き方なんですね。先に判断して、それから証拠を探しましょう、判断が正しかったというために、と。恐ろしく変なことをやっています。

 

その証拠に、わたしたちは何か決めたら、それを変えたくないでしょう? 「あの人は嫌な人だ」と決めたら、これを変えたくはないんです。そのまま一貫して嫌な人にしたいんです。これは脳を開発していない証拠です。理性があれば、判断しても判断は、いつでも訂正します。「新しいデータが入りましたから訂正しましょう」と。一般世界で判断しないことは、システム的に無理だからね、原始脳が判断しちゃうからね。冥想が進んでいない原始脳が、次から次へと判断しちゃう。

 

だったら、判断は保留にする。ペンディングにする。確定しないことにする。「あんたは嫌なやつですけど、一応、判断確定しないことにします」と。そういうふうに、いくらか自分を戒めなくちゃいけないんですね。そうすると危険性が結構なくなるんです。

 

結構われわれは人を判断して、「あの人は嘘ばっかり言っている。あの人は怠けものだ。あの人は金の無駄遣いをする。あの人の性格は気に入らない。あの人はうらやましい」とそういうふうにずーっと判断しています、人のことを。それは原始脳の働きです。そのままいる人はどうするのかと言うと、自分の判断は正しかったというためにデータを取るんですよ。

 

「あの人がうらやましい」と言うケースの場合は、「うらやましい」ことに関するデータだけ取る。それは普通の、開発していない脳の働きなんです。

 

その危険性から、どうやったら免れますかと言うと、判断はしますけど保留にする。データが入り次第、訂正する。それだけでものすごい立派な人間ですよ。

 

子供のケースなら、学校に入って初めに会った仲間が、えらい態度が悪くて「お前はなんだ」と言ったりする。そこで言われたほうは「こいつは性格が悪い」と判断する。そこを判断しないで保留にしておく。もしかすると、お互いが話すようになると優しい人間になるかも、と新しいデータが入り次第、訂正しますと、そういう感じで生きていれば本当にありがたいんですけどね。これは本人次第で難しいんですよ。

 

しかし冥想は、それと違って、判断は禁止にする。何を知って判断するのか、ちょっと待てと。まず、眼耳鼻舌身意に入るデータをそのまま取ってみなさい。それでデータを取る、必要に応じて判断する。

 

具体的な例では、冥想していると、耳に音が聞こえるんですね。音、音、と判断する。認識して確認する。音だったら判断する必要ないでしょう? しかし、脳が癖でいっぱいシステムができているから、音と確認しても、聴覚のシステムに入っちゃいますからね、判断してしまいます。

 

音、音、と言っていますけど、その音は「助けて!」という叫び声だと、聴覚のほうが幻想を作っているんですね。そうすると、音なんですけど、「誰か困っている様子である」と、そう判断する。では立ち上がります、立ち上がって、音のする方へいってどうなっているのかと状況を調べます。その状況に応じて判断したんですね。

 

見えるものは見えるだけで、もしライオンが攻撃してきても、「見える、見える」ではちょっと(笑)。そこで、見える、みえる、とヴィパッサナー冥想でやっていますけど、以前出来ている脳の回路で、「ライオンは追っかけてくるんだよ。攻撃されるかもしれません」と言う判断はありますし、ではこの場合はその判断に従いましょう、と客観的なデータで動く。

 

そういうことで、必要に応じて判断する。それでライオンが寝ているとか、メスライオンが子供たちと遊んでいる、と状況を見て判断する。「やっぱり怖いや」ということではないんですね、その場合はね。わたしたちは、ライオンを見たら怖くなりなさい、虎を見たら逃げなさい、蛇を見たら、いくら毒がなくても「気持ち悪い。逃げよう」とコントロールができているんですね。それに操られて生きています。

 

だからヴィパッサナー冥想の場合は、まずデータをとる。それから必要に応じて判断する。判断はいつでも、後。そこでブッダの冥想を覚りを目指して冥想すると、最終的にする判断は、一切は無常であり、苦であり、実態は存在しない、無我である、と言う判断なんです。そこへ最後に達するでしょう。最初から達しませんよ。最初から達したら覚っているはずなんですね。

 

われわれは、無常・無我の話を聞いているんだけど、わかっていはいないんです。わかる人というのは、その判断に達した人なんです。判断に達するには、長い時間をかけてデータを取らなくちゃいけない。だからお釈迦様はいたって簡単に、一切の現象は苦であると知るならば、ただそれだけで一切の苦しみから解放されるんだよ、と宝経で書いていますよ。

 

「すべての現象は無我であると、智慧でもって知るならば、それで生きることに対して諦めてしまいます。存在欲が消えます。それが清らかになる道である」

いわゆる解脱の道であると、明確に説かれています。仏道はデータを取って、必要に応じて判断です。すべてデータを取っていくと、誰でも同じ判断になるんです。それが科学的な判断です。

 

地球の動きやら太陽やら惑星の働きを調べるどんな人も、同じ判断に達するでしょう。ある人には、地球は丸いという結果が出て、ある人にはピラミッド型だという結果はでませんでしょう? 

 

そういうわけで、データをちゃんと取ったら誰であろうとも同じ結論に達します。だからその結論を真理と言うんです。一切が無常であること・無我であること・苦であることに、真理と言うんです。地球の例でいえば、誰が調べても地球は丸いっていうことになるしかない。

 

こういう態度を無知な人々は誤解しているみたいですね。わたしたちは、ほかの人々を侮辱して自分が正しいと言っていると。そういうくだらない話じゃないんです。どうして魂があると証拠なく言っている人々の話に乗らなければいけないんですかね。あの人が言っているんだから、やっぱり魂はあることにしましょうよ、というのはどういうことでしょうか。科学的でも何でもない。愚者がする判断は正しくありません。

 

われわれが毎回毎回する判断は、愚者の判断なんです。愚者の判断は正しくない。そんなのは放っておく。保留にして、データが入り次第訂正することにすれば危険がありません。

 

仏道は、判断はしない。でも、原始脳が判断しているんです。音、音、と実況中継しても、聴覚をデータから作っています。ま、それは気にしない。たとえば救急車のサイレンだと、脳が幻覚を作っていますけど、見たこともないし、見てもいないし、現実なデータは音、というだけですからね。救急車ですと言うためには、目で見て確かめないと。同じ音はほかのところでも作れますからね。あのサイレン音を作れるのは救急車に限っていますと言えませんからね。秋葉原でも音の機械を売っていますし、子供のおもちゃでもあります。

 

ですから、耳に音が入った途端、原始脳が「救急車に決まっている」と。それで外に出て救急車を探すと、救急車がない。「救急車がどこかに行っちゃったみたい」。こういう生き方をしています。

 

われわれはどうすればいいかと言うと、仏道の場合は、データだけ取る。そういう方法なんですね。修行中は適当に判断する。スーパーで食材を買おうかなと思ったところで、キャットフードは買わないんですよ。キャベツ買いましょうと売り場に行ったら、何個かキャベツが置いてある。そこでちょっと持ってみて、葉がしまっているものを選ぶ。それを、「あんた仏教をやっているのに、よくもまあ、それが仏教かい」というのはね。そういうふうにインターネットで書いている人がいますからね。

 

そういう一般の世界から、仏道に戻ったら、データだけ取る。

データがちゃんと揃ったら、無常・無我・苦ということは発見します。それで覚りに達します。

 

ちょっと余計にしゃべりましたけど、一応、あなたもね、いろいろと判断してしまうんだけど、保留にして、「判断しているんだ」とチェック入れれば、だいたいうまくいくと思います。

 

関西定例冥想会 2012.04.30

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1715971.html

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