質問
「座禅をしたり冥想したりと頑張ってきました。
鎌倉時代の座禅の達人が夢日記を書いておられたと聞いて、座禅をする人が夢をみるのかと、そこで疑問に思ったのは、ブッダのことばで夢に対してどのようなことばがあるのか、ということです。また、スマナサーラ長老はどのように夢をみられるのですか?
わたしはハッキリと渇愛をなくすという目的で冥想しているつもりなんですが、妄想的な夢をみるところに、修行が足りないという反省があります。」
回答(スマナサーラ長老)
まず仏教的に、お釈迦様は夢について語っておられません。
覚る前には、大きな夢を五つ見たんだと。それは、マハースピナー(mahāsupinā)偉大なる夢とありますけどね。これは菩薩にしかみられないものであると決定されているんですね。
ブッダになってからは、夢の話は一つも出て来ない。
寝ていないこともあるし、休むときは禅定に入るんですね。だから寝ないんです。たまたま真夏の昼に、「ちょっと昼寝したことがあるんだ」とお釈迦様ご自身でおっしゃっていますけどね。それは体がクタクタに疲れちゃってどうにもならないとき。インドの真夏は雨が降らない。
そのときはあえて寝たんだと言っているんだから、普段はあまり寝ないのでしょう。
寝ていないけれど起きて動いているわけじゃなくて、禅定に入っているんですね。
仏教的に夢っていうのは、ただの妄想の延長だけですよ。
現実だったらすごくシンプルに、見える聞こえる、それだけなんですね。結局、音を妄想でねつ造して、概念を作るんです。真理の立場からみれば音だけなんです。音は無常で変化している。
われわれは音を言語に翻訳するでしょう。
ですから、ずっとわれわれのこころの中で膨大な妄想の流れがあるんですね。そのまま寝たからと言って妄想の流れはストップしない。眼耳鼻舌身から情報が入らなくても、まだ頑張っているんです、こころがね。
そういうことで妄想が続いているんだということです。
妄想の中にはよい妄想と悪い妄想がありますからね。思考の中にもよい思考と悪い思考があるしね。夢にもよい夢と悪い夢があるんですね。
どんどんヴィパッサナーをして妄想の調教ができるようになってくると、夢はものすごく少なくはなります。
夢が少なくなると同時に睡眠時間が短くなります。欲張って「あ、大変だ眠気が出て来なくて寝られない」とか煩悩が出てきちゃうと、精神的な病気になってしまいます。
ヴィパッサナー実践で妄想の管理ができてくると、同時に、睡眠時間が短くはなります。
それでも、意識が働いていないと、いろいろこころが活動する。
こころは止まりませんからね。夢がみない人でも、誰かがその人の親指を握ったりして、その人が目を覚まさなかったらば、夢をみることになる。
誰かが寝ている人の足を引っ張る。データが脳に行く。その人が起きなければさらに引っ張る。それで脳がそのデータを勝手に処理するから、本人にとって夢になっちゃうんです。または体調が悪くなると夢になる。高熱の場合、どうしたってもいろんな幻覚がみえちゃうしね。
高熱で寝ていると、いろんな幻覚をみる。それは別にどうったことないんです。それが現実だと思ったら、そこからが危険です。
だから執着してはならない。
「夢か」ということで終わらなくてはならないんです。
サティの実践がかなりできて、どんな瞬間でも気づくことができるようになると、夢をみてもその場で気づいて「夢だ」とわかる能力も出てきます。
夢に大事な意味があると思っちゃうとアウト。
それは執着以外の何でもない。妄想・無知以外何でもないんです。
(終わり)
関西月例冥想会 2016.09.17
https://www.youtube.com/watch?v=--FnQrWEhhQ を聞いて書きました。
参考外部サイト:
Q:睡眠中の修行について、経典には言及はないのでしょうか?
どなたかご存知のかた、教えていただけたら幸いです。
長老ならご存知でしょうか?A:睡眠中の修行などの概念は経典には全くもありません。
Sutta Nipaata331偈にこのように説かれてあります。
「起てよ、座れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして寝られようか。」 これは、中村教授の訳です。
原文で aaturaanam hi kaa niddaa というところの意味は「病人なのに、寝ている暇があるのか」 と言う事です。早く努力して治療しないのかと理解するのです。(煩悩で悩んでいる人々は日々寝るばかりで時間を無駄にしないで修行を励むべきです。)
更に、修行中眠気に誘われたらどのように処理するべきかというアドバイスも経典に度々あります。
『お知らせ』:
Amazonの「アラナ精舎(カティナ衣法要お布施)リスト」Amazon.co.jp
から、皆様が送っていただいた品々がアラナ精舎へ届いているとのことです。10/15まで到着したお布施の品は、以下の通りです。
・線香(6つ)
・トレーナー(Lサイズ6着、Mサイズ1着)
・フロス(6つ)
・ハンカチ、靴下、髭剃り、爪切り(6つずつ)、USB充電器(
・ニット帽
・URB充電器(1つ)
・電気ケトル(6つ)
先日、ゴータミー精舎で雨安居に入られているヤサ長老に食事のお布施をした際、カティナ衣法要の功徳についてお話しをしていただきました。
「お布施はそのときのこころの中身が大事なので、鉛筆一本でも、飴玉一個でも構いません。その功徳が解脱に達するまで効力を発揮します」というようなこと教えていただきました。
他人のお布施を随喜する(一緒に喜ぶ)ことも自分にとって功徳を積むことになるということですので、もしよろしければご一緒に、上記のお布施の数々に随喜し、その功徳によってすべての生き物が幸せでありますように、と回向したいと思います。