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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

脳とこころ(前編)

脳と仏教 説法めも

質問

「お釈迦様の教えは、自分の生きる支えになるものだと思って、勉強したくてこちらに来ています。

モノ・体は素粒子的にいうとバラバラになってしまうわけですよね。でもこころは、何か実体があるかのように輪廻転生して相続される。だけど、物質・体はすべてバラバラになるのに、魂は無いとお釈迦様はおっしゃっているのに、こころはなぜバラバラにならないのでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

これは現代知識では答えにくい質問です。われわれが現代知識に基づいて考えちゃうのは仕方がないことです。昔の人々は実体論で考えていたんだから、魂は確実に存在するという非科学的な原始思考で生きていたんですよ。だからそのときお釈迦さまは、魂という実体はありませんよというものすごく科学的なことを教えてしまったんですよ。素直には納得してもらえませんでしたし、「だったら理性のある人々は質問して来い」と、選別しちゃったんですね。そこでみんなに体験させたんですね、無我の世界を。

 

それでどうなったのかというと、自分がいると言ったら執着でしょう。怒り嫉妬憎しみ、あらゆる苦しみの世界が現れるでしょう。無我を体験した人は精神の安楽を経験したんです。それにはかなわない。なぜならば無常は事実ですから。それはお釈迦様の世界です。

 

われわれの現代では、今も原始的な人もいますけど、世界人口のだいたい七割くらいが原始思考です。神様がいると信じていて、人を殺しまくっていますからね。でもほんのわずかの人間は、科学的な思考で、モノは壊れていくんだと知っているんです。それでニューロロジーでしたっけ、神経科学でしたっけ、徹底的に脳のカラクリを調べていて、自我なんかはないんだよと。

 

最近読み始めたんだけど、where is conscious mind というものはニューロロジーからどうやって説明するのか、という。ここには、わたしがダラダラ言っている話がそのまま書かれているんです。わたしが皆様にさっき言った四十兆の細胞の話というのは、あの本を読む前から言っていたものなんです。

 

だから、やっぱり仏教の目で世の中を見ると、科学的な能力がなくても、科学者が発見することは前もって言えるんです。

 

物質はバラバラになるというのは当たり前ですね。物質は存在するのかということを考えなきゃあかんですよ。机はあるのか、サボテンは本当にあるのか? 最終的には、物理学が素粒子の話になってしまったでしょ。素粒子というので原子ができているでしょう。原子を作っているものはいくつかありますが、それも素粒子で作られているものなんですね。となってくると、物質でなくなっちゃうんです。

 

素粒子はもともと物質で成り立たない異常な法則で、数学的でもない勝手な法則で動くものなんですね。最近まで、ニュートリノとは変だと、質量を持っていないんだと、それ自体は物理学的に変なんですね。最近日本人がノーベル賞を取ったのは、「やっぱり質量があるんじゃない?」というところなんですね。あるんじゃない? ということだから、物質さえも、本当にあるのかないのかという、あいまい・中途半端なところなんですね。人間が理解しようとすると。

 

最終的には、仏教でいうのは、四種類の波長ですよと。地水火風と言っているのはそれなんです。

波長だったら、モノがなければ波長が生まれませんし、波長があるからわれわれは「ある」と知っているし。

 

たとえば音というのは「波」でしょう。空気の分子が動いてくれないと耳で感じないんですね。だからわたしが音として聞いているのは、わたしの耳の中にある空気の振動なんです。わたしがしゃべって皆さんが聞いているのは、皆さんの耳の中の空気の振動で、わたしが口を動かしているところの空気の振動ではないんです。考えてみたら変でしょう?

 

空気が聞こえるわけじゃないでしょう? もしそうだったらうるさくて仕方がない。どこにでも空気があるんだから。

聞こえたのは振動なんです。だから音ってあるんですかね? 

しかし、感じますからないとは言えないでしょう。

そういうことであると、仏教ではなんのことなく言っているんです。

 

「ある」と言ったら執着してしまって、対立が起きちゃって、善いもの・悪いものとこころの中で差別しちゃって、余計な苦しみを作る。「ない」と思ったら、虚無主義になっちゃって、管理できない恐ろしい人間になっちゃう。どちらでも結果は同じなんです。あるととっても、ないととっても。

 

だからお釈迦様が、「『ない』というのも間違えだ。極端である。『ある』というのも間違えだ。極端である」(パーリ語)有名なすごく難しい経典に説かれています。「あるでもない、ないでもないんだ。そのかわりに、『これだからこうなる、これだからこうなる』という法則を理解してください」と。

 

空気が振動するから、音という現象があらわれる。空気の振動がなくなったら音という現象も消える。だから、「あるでもない、ないでもない、こうだからこうなる」という法則、これを仏教では因果法則です。こころがあるという話ではないんです。物質があるとも言っていない。すべて無常だよと。

 

わたしはあまりにも聞きなれちゃって、あまり面白く感じないんですけど、これはもう世の中でまだ科学者さえも達していないんです。今ギリギリまで、無常のところまで物理学も精神科学も進んでいるんですよ。でもそれは、解脱に行くまではいかないでしょうね、結局は。だって科学者は俗世間のために研究しているんだからね。命を正当化するために。そういうところは、結構知識で理解しようとするとね、相当大変だなと思いますよ。

 

だから質問の前半はいいと思いますね。生きる道を教えてくれて、助けてくれるのはブッダの教えです、というのはその通りなんですね。

 

わたしたちは、音を聞いてひどい目に合っている。目で見てひどい目に合っている。鼻で香りをかいでひどい目に合う。舌で味を感じてひどい目に合っている。体全体から常に感覚を感じてひどい目に合っているんです。神経科学者が言うのは、肉体から出てくる常にデータやり取り、原始脳(脳幹)と大脳の一番下(脳幹のトップ)のところに最初の自我が現れますよと。それは言葉ではないんだと。大脳の知らない、本能的に遺伝子的に最初の自我という境地が生まれるんだと。これが自我になるのは大脳に行ってからだと。だから、おもしろいでしょう? 自我っているのはわれわれが気づいていない自分。それは原始脳で起こるんだけど、それは肉体から四十兆の細胞から絶えず入ってくるデータなんです。

 

脳から信号が行く、体から信号が行く、受信送信なんですね。

それでわたしたちは、それがあるという仮定で生きようとするんです。生き方自体がさかさまになっています。

 

皆様が気づいている自分・自我は大脳で生まれるもので、それより先に、概念になる前にその感覚が起きているんです。それは肉体から情報が入っているときなんです。だから、完全に麻酔をかけたら、どうしますかね? ないんです。だから体が動かないんです。肉体からデータが入るようになった途端、また自我が現れてくるんです。

 

それで自我が、体を管理するということになってきます。自我が大脳で、思考概念作ったりする。そうするとかなり強烈になってくるんです。自我の気持ちが。それから人殺し、戦争するまでなってくる。一方で、そこをそのまま(ありのまま)理解するなら、安らぎになるんだよと。

脳とこころ(中編) に続きます)

 

東京法話と実践会 2015.12.13 

http://www.ustream.tv/recorded/79709203(期間限定公開動画)14:00~

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