(ご利益の法要 - 新年法要2016(3)から続きます)
幸福っていそういうものですかね?
世の中ではそういう方向にね、商売繁盛、家庭円満、そういうリストがありますからね。お寺でも使っているし、神社でも使っているし、あまり変わりはないんです。それは一つは、人間の希望ですからね。金持ちでいたい、健康でいたい、家族が円満で、問題なく生きていきたいというのは普通の希望で、一般人の希望で、犬猫と変わりがありません。
仏教はいつでも、理性的な教えで、そういうレベルで人を止めておかないんです。
もっとレベルを上げてください、生命として。そのために、一番最初にわれわれは、期待する幸福って何なのかと考えなくてはいけない。客観的にみていく。商売繁盛したい、豊かになりたい、これは一つの希望でしょ。
なんのために?
ただ肉体を維持するためでしょう? ほか何かある? 肉体を維持するためにね。家を建てた、高級車を買った、旅行した、クルージングしました、と金が必要でしょう? 肉体のためなんです。
みんな何のために勉強するんですかね?
誰一人も理性のある頭のいい人間になってやろう、とは思っていないんです。お寺に、神社に行って、試験に合格しますようにとお祈りしますよ。それはそれでいいんだけど、何のためかと聞くと、いい仕事を見つけて金を儲けたいんですよ。ゼロが多い給料をもらいたいんです。それだけなんです。
それから、健康を願うでしょう。それは明らかに体でしょう。
お釈迦様はわかるんですよ。
人間というのは、死にたくない、歳を取りたくない、そんな程度のことを期待しているんだと。しかし、精密に物事を分析してみると、生きていきたいという希望・欲望が、ものすごく不幸な願いなんですよ。一切の苦しみ、不幸が、その希望から出てくるんです。
そこに、ものすごい矛盾が成り立つんです。
(貧乏神 - 新年法要2016(5)に続きます)
<スマナサーラ長老-新年祝福法要@マーヤーデーヴィー精舎 2016.01.17
https://www.youtube.com/watch?v=lRWqbF9hFBs より書きました>