(前回 十二因縁(1)から続く)
こういうふうに理解してみましょう。
わたしたちはどんな生命でも、ただ生きていきたいと思っているんであって、それはなんでや? と聞いたらわからないんですね。
生きていきたいでしょ? 誰だって。どんな生命でも。なんで? わからない。
「なんで生きていきたいんですか?」と聞いちゃうと、答えがないんですね。
それで日本の方々がよく出す質問っていうのは、「生きる目的」。
自分が生きていきたいと必死でやってますけど、うまくいかないんですね。
たとえばニュースを見ると、経済成長というのは抜群なんです(2013年12月当時)。一般人にとっては逆なんですけど。なおさら息苦しくなるだけで。問題が起きるだけで。しかし一部の人々は、「わあ、最高、幸せ」と。ものすごく豪華な品物が売れるんだ、と言ったり。
わたしたちにとっては、国がどうであろうと生きることは大変です。
だから、頑張って生きていきたいとやっているんだけど、なかなかうまくいかないんです。
それで、何か目的があるのかと自分に聞くんですね。
苦労してでも、頑張りたいんだけど、失敗しても頑張りたいんだけど、なんか目的があるのかと、生きることに、と聞いたりするんです。
わたしは、絶対なにもないんだと。生きる目的は。皆無、ゼロ、と言うんです。
そうすると、わたしの頭がどうかなっているんだ、ということで終わっちゃうんですね。
なぜならば、生きて生きたんだから、なにかあほな目的でも教えれば、「ああ、そうですか! ありがとうございます!」となっちゃうんですね。だからその場合はかならず嘘を言わなくちゃあかんですよ。
「生きる目的というのは、それはあなたを神様が作ったんだから、あなたは心配しなくていいんだよ。それなりに頑張って生きていれば、ちゃんと生きる目的に達しますよ」という教えなんですね。
なんで不可触民族で生まれて、奴隷カーストで生まれて、先祖代々奴隷でいなくちゃいけない、これは苦しいやと。われわれは他の仕事をしたい、と言ってもダメです。
「あんたは奴隷カーストで生まれたのは、神様がそれを定めたんだよ。神様が与えられた職業ですよ。それにガチャガチャ言うのは神に対する冒涜ですから、黙っていなさい」
だからインドでは、カースト制がギッシリと定着していて、これは変えられない。宗教そのものだから。
ヒンドゥー教の人びとは、世界のなんであろうとも、元々はヒンドゥー教から学んだものだと言うんですね。どこかで原子爆弾が、というと、その原子爆弾の能力はヒンドゥー教で持っていましたよと。言うわ、言うわ、言うわ、ね。
ちょっと自分の生き方は何の哲学もないということには気づかないんです。
(続きます
スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15
https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。
参考外部サイト:
パティパダー巻頭法話(183) 人類の宗教
インドの元々の宗教は、バラモン教です。バラモン教では、神(梵天)が四姓に分けて人間を創造したのです。四姓とは、1バラモン(聖職者)、2クシャトリヤ(王家、軍人、地主)、3バイシャ(一般人)、4シュードラ(奴隷、使用人、召使)です。1のカーストは神の口から生れたのです。2のカーストは腕からです。3のカーストは神の太ももから、4のカーストは神の足裏から創造されたのです。このような思考に基づいて語る宗教は、人類の役には立ちません。カースト制度の問題は、インド社会の問題です。差別は無くすべきなのに、宗教がそれを正当化するのです。