《前回 こころは無明 - 最善の選択(5)》
生命を幸せにしたければ、治療するべきところはどこですかね?
それは、こころのいい加減さ、不確定な状態なんです。無明で判断することはやめてもらわなければいけません。感情で判断することはやめてもらわなければいけないんです。
そういうことでお釈迦様は、こころの科学とそれに伴った治療方法を教えています。
それだけじゃなくて実例を腐るほど出した。
しかも、お釈迦様が処方した「薬」は誰にでも同じではなかった。
お釈迦様は誰にでも同じ方法を説かれていないんです。「基本的にはこういうことである」としたうえで、それからそれぞれの人のこころの性質に合わせて方法を説いた。
幸福に至る道とはそういうものになるんです。
それから、世界が一番嫌がっているのがブッダの教えなんですね。
ものすごく嫌がっちゃうんですね。生命はみんな馬鹿だから、仏教の教えを聞くと尻込みして「IT社会で生きている現代のわたしたちには合わない」と言いながら、お祈りしたり何かを唱えたりしているんですね。
わたしのたとえでは、「うんこを垂れながら、『わたしは宮廷料理しか食べませんよ』と自慢する」ような話なんです。
こういう話をすると、わたしが怒っているように見えるそうですが、こころはそのたとえのようなものなんです。
いつだって間違ったものを選ぶんです。間違ったものがカッコよくみえるんです。だって無明だから。
そこがこころの法則。
わたしたちがこのままで何かを選んだら、間違えてしまいます。
選んだものにしがみついて、「これに決まっている!」と思ったら、確実に正しい選択ではないんです。
これも立証できますよ。
子供は遊びたい? 勉強したい?
子供のこころは遊びたいと言っています。遊ぶ方が楽しくてね。子供のこころがそう決めているんです。
そこで人生経験のある大人が、「これはマズい」と。
子供は大人の世界を知らないからね、子供にはその判断は不可能。だから無理矢理「もう遊ぶのはやめなさい」と言って、勉強させなくてはいけないんですね。
ということで、皆さまが大人であっても同じことで、やりたいことといえば、パチンコ、麻雀、仕事帰りの一杯。そう思っているでしょう。
麻雀なら徹夜できるのに、何か夜に大事なことをやらなきゃいけなくなると、疲れて眠くなって……。
これが、こころの法則なんですよ。
こころがやれと言っているものは、やりたがっているものは、かえって危ないことなんです。それも科学的に立証できることでしょう? それがこころの科学なんです。データはいつでも取れるんです。どんな人間に聞いてみても、同じ答え。「素直に」こころがやりたいことは、ふざけて遊ぶことなんです。
ということは、こころがやりたがっていることは、明らかにやっていはいけないことなんです。
(続きます
《スマナサーラ長老法話 関西定例冥想会 2016.11.13
https://www.youtube.com/watch?v=FKgZ8djfv40&feature=youtu.be
を聞いて書きました》