ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

有身見と無我の関係について

質問

「無我ということに関して質問します。

自分という実体があるんだという概念が、つまり有身見が、頭から消えたときは、無我というものを体得して真理に達したということになるのでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

有身見と無我というのはステージがあるんですね。

無我になったら修行を終了しています。

有身見が消えたら預流果になった、いわゆる哲学者になった、真理を知った人になるだけなんですね。まだまだ、自分という実感が残っています。そのときは、怒ったり、いろいろ問題が起こったりする。

 

これは四つのステージです。

なんで覚りは四つのステージになっているのかというと、無我に達するために、自我をなくすために四回頑張らなくちゃいかんという、かなりタチが悪いんですよ、自我が。

自我の反対の単語は無我ですね。

 

有身見というのは、自分というしっかりとした実態があるんだというね。

これはそうじゃなくて変わるんだ、ということになっちゃうと、有身見が消えちゃう。有身見が消えるとすごく人生は楽になるんですよ。

 

たとえば、スーパーのレジで、何か言われちゃって、ちょっと機嫌が悪くなったとしましょう。

そこで有身見のある一般人が、次の日もスーパーに行かなくちゃいけない。行ったところで、また同じ人がレジにいるんですね。もう腹が立ってしまう。「昨日この人に変なことを言われちゃって、今日もこの人はいる」と。

有身見のない人は、それは昨日の話で、今日は別なんです。

 

だから、怒りを持っていない。昨日のことを持ってこない。

昨日嫌なことを言われたら、「なんか言われた」というふうに、今日は今日の問題に入るんです。

無我だったら、へっちゃらで何も気にもしていません。反応はないんです。

 

質問者「無我というのは、五蘊で成り立った一時的な現象が生命であるということで、Aさん、Bさん、という個別の実体はないんだということですか?」

 

そうです。

 

質問者「色(しき)は、それぞれ違うように判別できますが、色も一時的な現象としての流れなので、みんな同じであるので無我であると認識するのでしょうか?」

 

「みんな」という単語が問題ですけどね。五蘊ですね、あるのは。

そういうふうに、言葉が出てきちゃうんですよ。脳は、瞬間瞬間のデータを一束にしたいんですよ。だから、X(エックス)というシンボルを作っちゃうんです。数学のように、そこにデータを入れてしまいます。

 

数学でXには、いろいろな値が与えられるでしょう。

でも計算する人は一生懸命、Xで計算するんですね。たとえば、Xの値は2であるとなっていたら、固定されているので計算は終わります。でも、Xの値が2だったら、Xではなくて2を使ったらいいでしょう? つまり、Xを使うのは、どうしてもXの値が変わるからですね。

科学の世界でも、XやΣやらいろいろと使いますが、それは偏差するからですね。学生さんたちは、そこでXが固定されていると思って計算します。そして値を見つけます。データが固定したものだと。

 

サイン、コサイン、など、ひとつも値が固定していない。数学ではシンボルを使いますし、生きているわたしたちも「わたし」というシンボルを使っています。

そこはいつでも固定していない。瞬間瞬間、「わたし」というシンボルの値が変わっています。座っているときの「わたし」と立っているときの「わたし」は違います。チェックすると、「ああ、すべて変わった」と、気持ちも考えも。そう見えてきます。

 

そこで、数学をやっている人のように、「なるほど、これは変化する値である」とわかってくるんです。

 

脳とこころに問題がありますからね。

こころを解読してもらわないと、覚りとは言えないんですね。

知識で解読したら、自信をもって頑張ってくださいと言わなくてはいけませんね。

 

よろしいですか、このくらいの説明で。

 

質問者「あと一つ追加ですが、自分の姿を鏡に映した形をイメージしたものが、『これがわたしである』と常に自分に付きまとっています。残像のような。これは結局、阿羅漢になるまでは消えませんか?」

 

預流果になったらかなり薄くなります。

阿羅漢になったら消えてしまいます。

 

「わたし」という感情は原始脳で生まれるんですよ。

原始脳に言葉がないんです。感情だけ放射するんですね。大脳が考えるんですよ。考えて、イメージを作ったりする。あなたの場合もイメージを作ってしまうんですね。みんながイメージを作るわけじゃないんです。

 

もしかすると、われわれインド系の人々は、頭が思考や哲学っぽい連中だから、イメージで複雑な哲学を考えられませんね。

日本の場合は、だいたいイメージ中心だから、イメージを作りやすいかもしれません。それはどうったことないんだけどね。

原始脳にある感情が上に上がったら、そこで言葉になったり、コンセプトになったり、イメージになったりいろいろするんですね。

 

自分という実感が出てくる、あのエネルギーを発見しなくちゃあかんですね。

 

大脳で概念にする前のところで、実感がつい生まれています。

考える暇がない、ナノ秒で実感が起きているんですね。あれは原始脳(オールドブレイン)とミドルブレインでそれが起こります。古い脳(オールドブレイン)は世の中のことをまるっきり知らない。見えない、聞こえない。ただ感情を作ります。しかし大脳になってくると、原始脳のものをものすごく発見してくれるんです。

だから結局は、大脳から原始脳の働きに行かなくちゃいけないしね。

 

何かちょっと触れただけでも、実感が生まれてきます。

それから観察するのは大脳だから、大脳で観察して、「触れただけのことで、『わたし』という実感が生まれたんだ」と。

触れただけではなく、すごく痛みがあると発見しやすい。痛みがあるというのは、何かに触れた感覚でしょう。「痛い~!」と感じていると、「イヤだこれは」という気持ちも生まれてくるんですね。そちらに自我が堂々と現れています。そういうふうに発見したら、有身見が消えちゃうんです。

 

これは脳が自然にはやらないプログラムだから、修行でやらなくちゃいけないんです。

大脳新皮質は、そういう修行するプログラムはありません。大脳新皮質は、原始脳の指令に従うだけで出来上がっています。だれがやったわけでもなく、大脳新皮質はジワジワと今まであった脳の上に現れてきたものだからね。

 

はい、頑張ってみてください。

 

質問者「どうもありがとうございました」

(終わり)

 

 

スマナサーラ長老談 法話と実践会(ゴータミー精舎)2017.07.09 

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当日のTwitter法話メモ

スマナサーラ長老の法話メモ(@jtba_talk)/2017年07月09日 - Twilog