慈悲の瞑想と言うものがあります。
(中略)
これは宗教でやるものじゃなくて、すべての人類がその気持ちで生きていかなきゃいけないんですよ。
そうであるならば、この世の中は何の問題もないはずなんです。
人間が頑張っても頑張っても、頑張れば頑張るほど問題が増える。幸福は減るという方程式なんですね。
例えば、戦いをやめましょう! と頑張るとその分戦いが増えてしまいます。豊かになろうと踏ん張っちゃうと、その分豊かさが消えて貧乏になってしまうんですね。なんだこれ、このあべこべって言うね……。
個人個人で聞いていみれば、平和が嫌な人っていうのはいませんしね。だったら、すべての人類が平和でいるはずでしょう。
でもあまり平和を謳うと、結局失ってしまうのは平和なんですね。増えるのは戦争なんですね。
個人的にも同じことで、自分たちが幸せになろうとか家族を幸せにしようとか、仕事をしっかりしようとか頑張ると、どういう結果になるかというと、逆の結果になってしまいますね。
なんですかね、これは?
一生懸命頑張っているのに、結果は反対だと。
これは人間が一つ大事な真理を忘れているんですね。
人間と言うのはいつでもわがままです。
ほんとは自分だけ良ければいいやっていうことが、心の中で隠れているんですよ。人のことは構う暇がないんだと。「私だけ良ければいい」という考え方は、一切の生命の中に隠れているんです。これが自分でも気づかないんですよ。
「自分だけ良ければいい」というのは「他人はどうなってもいい」と言うことなんですよ。だから、うまくいかないんですね。
例えば平和が欲しいと言っている人は、何か自分に問題があって、自分に問題が無くなったら他の人が死んでしまっても気にするもんかと言う態度なんですよ。
そんな態度で平和平和といっても、誰も協力したいという気持ちにはなりません。
その人の機嫌を取っている間はいいんだけど、なにかちょっと私たちが失敗したらやられちゃいますよと言うことを知っているんですね。
何一つもこの世の中でうまくいかないのは、「自分さえよければいい」というこの考え方のせいなんですね。それが猛毒であって、すべての苦しみのもとになっています。
個人の苦しみのもと、苦しみだけではなくて失敗のもとですね。個人の失敗と苦しみのもと。それから、社会の苦しみと失敗のもとも、ここにあるんですね。
そこでお釈迦様が、その恐ろしい気持ちを消しなさいと。「私だけ、私さえ、良ければいい」というね。
この気持ちを消すっていうことはかなりの修行なんです。それで、善の始まりなんです。すべての善、すべての良いことは、そこから始まるんですよ。その気持ちがある人が、そのまま善なんですね。善い人なんですよ。
ですから、すごく心清らかな善い人になるっていうのは、それほど遠い話じゃないんです。
すごい身近な、実現できることなんです。
今日できることなんです。今日でその気持ちになってしまえば、立派な人間になったということなんです。
(中略)
自我っていうものは壊れてしまうんです。自分と言う殻が。自分と言う殻が壊れたっていうことが、悟りの一番目のステージなんですよ。そうなれば、その人はいくらなまけても確実に悟りに至るんですよ。完全に悟るっていうことは、そこで確実に確保されるんですよ。自我っていう殻にひび割れが入ったならば。自我っていうものはないんだぞと分かったら。
そういうことなので、慈悲の瞑想はすごく大事に実践してほしいんですね。実践し始めたら、その時点から、自分の人生がいい方向へ回転して、回っていくんです。
自分にも楽しいし、自分の周りの人にも、すごく楽しくなっていくんです。(おわり)
スマナサーラ長老の「慈悲の瞑想説明」音源:慈悲の冥想 「初心者への「慈悲の冥想」説明法話」よりメモしました。
用水路の鯉に、焼き芋の皮をあげたら失望された。口に合わなかったらしい。
— チエリ (@thierrybuddhist) October 19, 2014