2015年9月23日(水)秋分の日「法話と実践会」(場所:幡ヶ谷区民会館)
三つめの質問です。
今回も @jtba_talk さんの実況ツイートを引用。これでこの法話会の質疑応答は終わりです。
Q 慈悲の瞑想について
A 慈悲の瞑想していて、あれこれ親しい人々のことが思い浮かぶ。そこで感情が湧いてくると良くない。みんな幸せでいてください、で終わらせないといけない。感情ではなく理性で、感情を理解に変えて、幸せを願うんです。
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 9月 23
そこから早く「生きとし生けるものが幸せでありますようというところに行かないといけない。脳にリミットがあるから、どんどん枠を広げていく。すべての人類の幸せを願う。でも人間だけでは狭い。生命といえばたくさんあります。ですからすべての生命が幸せで元気に明るく生きていて欲しいと。
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 9月 23
ですから、慈悲の瞑想では、私の前の方向に住んでいる生命が無限まで幸せでありますように、右の方向、後ろ、左、上、下……。と念じると地球の範囲も超えている。そこから更に智慧に持っていかないといけない。生命が幸せを目指すというのは、ごく当たり前の呼吸するような当たり前の気持ちだと。
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 9月 23
では、なぜ互いに争うのか? 自我という錯覚があるからだと。慈悲に邪魔するのは自我なのだと。私に本当の慈悲が現れないのは自我の錯覚があるからだと。そこで自我の錯覚を消してしまえば、慈悲の完成です。その人は解脱に達しています。
— 梛 (@jtba_talk) September 23, 2015
慈悲の瞑想だけでも解脱の方向に行きます。しかし必ず解脱に達するという保証はない。ヴィパッサナー瞑想ではいきなり解脱を目指します。
慈悲の瞑想は、生命がすべき究極の良い生き方なんです。でも、生き方なんです。その生き方から解脱(生きることの脱出)に行く人もいるし、行かない人もいる。
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 9月 23
ヴィパッサナー瞑想する人はエゴイストでしょうか? いいえ、人類に幸福を与えています。心の落ち着きを通して、周りによい影響を与えるんです。聖者には自我がないからこそ、周りもその人の影響を受けるんです。自我があると(新興宗教の教祖のように)苦労してカラクリしないといけない。
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 9月 23
私に自我の錯覚があるから、すべての生命に迷惑をかけて生きているんです。ですから、他を助けたければ、自分の自我の錯覚を無くすだけです。
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 9月 23
ヴィパッサナー瞑想する前には、慈悲の瞑想をしてください。他の思考の悪影響を受けずに、ありのままに現象を観察できます。影響を受けたとしても、修行を支える、慈しみの影響しか入ってこないのです。
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 9月 23
(だいぶ端折りましたが以上です。)
— 梛 (@jtba_talk) 2015, 9月 23
↑「自我がないところに慈しみと智慧があらわれる」
この講演会はもう終わりましたが、*1
このフレーズが何とも言えなく良いです。
でもこれ、サラッと書かれていますが、ものすごく難しいことなんですよね。「自我がない」って究極じゃないですか。その極致に「慈しみと智慧があらわれる」んですから、道のあまりの遠さにクラッとします。
ただ、ゴール地点に立つ前でも、慈悲の冥想によって一応、「仮免許」はなんとか手にすることができて、束の間ではありますが聖者のバーチャル体験が可能ということかと思います。
仮免許といっても、自動車の教習訓練でも実際に路上を運転するわけですからね。「バーチャル」というのはちょっと違うでしょうか。コンテンポラリー体験(?)というほうがいいかもしれないですね。
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