ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

慈悲の瞑想中に過去の思い出に囚われてしまいます

質問

「慈悲の瞑想をやっていて、ある程度してこころが喜びを感じたり、体が楽になって来て、過去の幼少期のよい思い出などが出て来て、慈悲の瞑想が立ち行かなくなってしまう状況があるんでしょうか? 

慈悲の瞑想の体感バージョンでは、メッター(Mettā、慈)が強いですが、慈悲の瞑想のノーマルバージョンではカルナー(Karunā、悲)が強いという違いはどういうものでしょうか?」

 

 回答(スマナサーラ長老)

管理できないくらい妄想が入るということは、間違っているということになるんですね。すべて現在でやらなくちゃいけないんですね。過去に行くんじゃなくて。過去に引っ張られたということは道から逸れたということなんですね。いつでも現在にしなくちゃいけないんです。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように」と言っても、過去の生命じゃないでしょう。今生きている生命。そういうことだから、現在、今、生きている生命。特に慈悲の瞑想で死んだ人々は絶対思い出さないでと言っているでしょう。瞑想でなくなっちゃうんです。今この瞬間で生きている生命なんです。だからそこを直してください。

 

慈悲の瞑想のショートバージョンでメッターで、ロングバージョンでカルナーというのは、そう言うのはあまり気にしなくていいと思いますね。自分で体感できる慈悲喜捨のどれでもいいんです。体感できる気持ちで十分です。

なぜならば、慈悲の瞑想から期待される結果は同じですからね。自我のないことを期待している結果なんです。自我の錯覚がなくなって、自分も他の生命も同じ生命だとみられる。その目的に道が四つあるだけです。

 

そのときどきに、慈悲喜捨の中から自分が感じられるものでいいんです。

 

東京・法話と実践会 2015.06.14(日)

http://www.ustream.tv/recorded/63713487 よりメモしました。

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慈悲の瞑想が正しく行く場合には、自我というものが消えていくんです。これはセルフ・マインドコントロール・バージョンだからね。

どうせもともと自我の錯覚があるんだから、自我の錯覚が出て来てマインドコントロールするようになっちゃうと、たとえ言葉が慈悲であっても、エゴイストになっちゃうようなら、これはもう、恐ろしい副作用になっちゃうんですね。

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