ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

慈しみの心でいるのに失敗するのはなぜ?仏教を学ぶ人が陥る心の罠。慈悲の実践上級者編です。

質問「私が言った言葉が原因で兄と不仲になってしまいました。私の慈しみが足りなかったのでしょうか?」

ポイントまとめ

  • 慈しみを実践すれば、自分に都合がいい結果が来ると期待するのは勘違い

  • 相手が得する行為が慈しみ

  • 相手も自分の心も穏やかにいられるかに挑戦する

回答(スマナサーラ長老)

慈しみで失敗するところがあります。それは、自分の都合のいいように利益を得ようじゃないかと思ってしまうことがあるんです。家族や兄弟とケンカをしたとき、慈しみを実践して自分に都合のいい結果が来るんじゃないかと勘違いしてしまいます。それは自我が絡んでいて、慈しみじゃなくなっているんですね。

私が得することだけではなくて、相手が得する行為が慈しみです。だから損得ではないんですね。そこは慈しみの上級になりますからね。

 

自分にとって望まないことを相手が望む。しかも相手が頑固で自分の話を聞かない。そこで慈しみを実践するなら「分かりました。(全部あげて)構いません。まあそれでも、いいんじゃない」ということにする。自我が出てきたら「そうなったら私が損するんだよ」となるが、慈しみを実践すればそういう気持ちが消えてしまいます。

 

慈しみを実践するときはそういう失敗が入る時があります。

 

具体的な例を出します。

たとえば財産分与で争いが起こる。そうするとなるべくたくさん自分が取りたいって言う気持ちになるでしょ。じゃあ慈しみで均等に分けましょうといっても、うまくいかないんですね、その場合は。

 

兄弟の間で自我を張って欲張って、財産のほとんど全部を欲しいと言い出す人もいる。そういう時は誰かが慈しみを実践する。「あなたは全部欲しいんですか? じゃあ、はいどうぞ。それで幸せになってください」と言うと問題が解決するんです。そういわれた人は財産をたくさん持って帰ったかもしれませんが、その後まともな人間になる可能性があります。

 

慈しみを実践する間に、自我が入ってきて混乱させて問題を起こすということはありますね。

 

これは私のものだ、というのではなく「あなたが持って行ってください」というのも慈しみなんです。

俗世間的な損得勘定ではいかないんですね。

 

相手がいかに穏やかでいるのかということだけ気を付けてください。

相手が恨みやひがみを持たないようにする。相手の心が汚れているならばそれは相手の問題で、相手はそれによって相応の結果があるけれど、それは自分の管轄ではないんですね。自分が穏やかな心でいる、清らかな心でいる、それが自分の人生なんですね。

 

お金がいくらか向こうへ行ったんだとか、土地が向こうへ行ったんだといっても、どうせ結局は自分の物にならないんですからね。

それによって永久的に心にダメージを与える必要はないんですよ。

 

世間のものは初めから自分の物と言うのはないんだから、相手が欲張りでお金や土地にしがみついているんだったら「どうぞ」ということも必要なんですね。手放す気持ちですね。

自我が入り込んでくると、手放すのはなんか納得いかないんですね。

 

(質問者から、再び質問。「欲しかったらあげる」と自分が言う中に怒りの気持ちがありますが……

 

人間だからいろいろ頑張らないとね。

「そんなに欲しかったらくれてやるぞ!」という気持ちも当然起こりますけど、そこでブッダの教えに従って自分の人生を直してみるんですね。

がんばって、「どうぞ」と言える気持ちに持って行ってみる。

 

失敗するのは構わない。学んで、学んで、どんどん自分の心を観て、いくらか時間をかけても、清らかになるまで頑張らなくちゃいけない。

 

自分を直すいいチャンスなんですね。どうしても納得がいかないことが起きたり腹が立つ出来事が起きたり、理不尽なことが起きたりして、そこで戦っちゃうと自我なんですね。

このチャンスで、いかに自分が穏やかにいられるかと修行するいいチャンスだと捉える。

自分のこころが穏やかになったら結果もいい。

ちょっと頑張らなくちゃいけないと思います。(おわり)

 

β関西活動報告 : '14 10/13 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎 (Youtube動画上で52:00~1:02:50まで)よりメモしました。

 

参考外部リンク:仏教講義 21.損得勘定の智慧(5)与えることの喜び

私たちは人に何かモノをあげた後に「損した」とか「もったいない」という惜しい気持ちが生まれることがあります。なぜこのような感情が生まれるのかというと、たとえば自分の部屋にテレビがあるとしましょう。でも仕事が忙しくてなかなか見る暇がありません。そこで友だちが「そのテレビをくれないか。代わりにソファーをあげるから」と言いました。友だちがすごく欲しがっているので「しょうがないな、持って行け」と言います。でも後になって「ああ、損した」と後悔する可能性もあります。ソファーは別にあってもなくてもいいものですが、テレビは毎日見なくても、ときどきは見ますから、自分にはまだ必要なものなのです。この「まだ自分に必要」というときに「損した」という感情が出てくるのです。

 しかし、価値というものは受ける側で成り立つのですから、実際、与える側には損も得も関係ありません。それなのに、いったん手放したものに執着して悔やんだりすると、それは悩みの種になって苦しみが増えるだけです。友だちが喜んでいるなら、それでよいのではないでしょうか。世の中は「与えて得る」というギブ・アンド・テイクのシステムで成り立っているのですから、何らかの形で自分が与えなくてはならないのです。それならば、悔やんだり悩んだりしないで「人の役に立ってよかった」と与えた喜びを味わい、充実感を感じながら生きる方が「得」なのではないでしょうか。

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