質問
「慈悲の冥想のやり方なんですけど、特定の人ばかりに向けてしまうとよくないのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
慈悲の冥想は、最終的には生きとし生けるものに行かなくてはいけないんですよ。
慈悲の冥想とは、「生きとし生けるものが幸せに」という気持ちなんです。
これは言ったっても全然実感がないしね、最初は。
だから、より具体的に工夫するんですね。
そこで周りの人々を対象にしたりする。
たとえば、自分に子供がいるとしましょう。
子供のことは頼まれなくても心配するんですね。幸福になってほしいと思っちゃうんですね。子供が成長するならなんでもやってあげちゃう、という気持ちがあるんですね。そこから、自分のこころをみるんですね。あの気持ち。
自分が子供を持っちゃうとどんな気持ちでいるのかと。
なんでもしてあげたい気持ちでいる。子供が勝手に頑張って成功すると、勝手に自分が喜んじゃって、あの、精神的な経験ね、そこは自分にとって具体的なんですね。
具体的な気持ちを取って、それを他の人々にも、広げてみよう、広げてみよう、とするんですね。
わが子を見ると、慈しみが出てくる。
それで子供を措いておいて、こころに持っている気持ちに集中する。
それを他の子供にも当てはめてみる。「この子も、同じく幸せになってほしい」とかね。「この子もしっかり勉強するとうれしいなあ」とかね。
もう一人、もう一人と、子供たちみんな入れてみる。
「みんな本当に元気に勉強してすくすく育ってくれたらありがたいな」というわが子のような気持ちをそちらにも広げてみる。
それは経験済み。
それから他の人々も、大人も入れてみる。
そうやって、人の数が増えていくでしょう。
動物に対しても、わが子と同じアプローチを、「この子も元気に明るく生きていけたらいいんじゃないかなあ」と。野生の動物にも「みんな元気で生きてほしい」と。
そのように広げて、広げて行って、生命はみんな幸福であってほしいというこころの気持ちを、ものすごく広げてみることなんですね。
そういうふうに気持ちを広げるようにと、ちょっと頑張ってみてください。
感じてほしい、わかりやすく言えばね。
慈悲を自分のこころで感じでほしい。
これは、「人を幸せにしてあげるぞ」という大きなお世話の世界じゃないんです。相手が「頼んでないよ」「放っておいてください」というかもしれません。それは慈悲じゃないんです。
自分の気持ちを育ててみるんです。
それはすごく力になりますよ。頑張ってください。
(おわり)
東京法話と実践会 2016.07.24
http://www.ustream.tv/recorded/89905720 (期間限定公開)を聞いて書きました。
(最近の開設後、「鉄」さんにコメントいただきました。鉄さんもどうぞお幸せでありますように!)
参考外部サイト:
Q: 慈悲の冥想をすると「自分と他人」という区別がなくなると聞いたことがあるのですが、そのことと、ヴィパッサナー冥想をして自我がなくなるということは、近いというか、共通している部分もあるのですか。
A: 例えで言います。すごく苦い劇薬が小さじ一杯あ るとします。劇薬だから、飲んだら死ぬかもしれません。それをコップ一杯の水に溶かします。その水を小さじ一杯だけ飲むならば、毒性はかなり薄まっているから大丈夫でしょう。しかし、それでもやはり危険がないわけではありません。そのコップ一杯の水をかなり大量の水に薄めたならば、小さじ一杯ぐらい飲んだとしても、まったく危険はありません。もう毒でも何でもなくなっているのです。では、毒が完全に消えてゼロになったのかというと、そうではないでしょう? ごく微量にしろ、どこかに毒が含まれているはずです。ただ、もう人間に攻撃することはありません。それが慈悲の方法です。