質問
「幸せと不幸せは相対的なものだと思います。今日、幸せなら相対的に明日は不幸である。今日不幸なら、相対的に明日は幸福になるだろう。それでたどり着いた結論は、明日幸福になりたいなら、今日不幸になっておくべきである。その結果どうなったかと言うと、ものすごい不幸に陥りました。今、私は経験的にその考え方が間違いであると知っています。ただ、理論的にどうして私が不幸に陥ったのか知りたいです。」
回答(スマナサーラ長老)
思考は数学と同じです。
数学者の論文はトラックで運ばなきゃならないくらい膨大です。思考する場合は膨大な量を思考することができます。しかし、我々が生きている生々しい世界でその概念が存在するかしないか、ということが重要です。
例えば数学では無限∞という数字がありますね。8を蹴っ飛ばしたら無限∞になっちゃうんですね。
では、頭で無限と思ったことを現実世界で経験できますか? できないんです。でも数字ではありますよ。いたって簡単、8を蹴っ飛ばしちゃえば無限∞なんですね。
あなたの思考も同じで、頭で考えると、あなたが言った通りなんですよ。不幸があるから幸福と言う概念が成り立っています。幸福があるから不幸がある。
そういう風に一切の概念は、相対的です。
例えば「高い」という言葉を考えたことがある? では低いと言う言葉がなくて成り立つ? 成り立ちません。つまりどちらも独立して成り立ちません。
つまり無限と言う概念が成り立っているのは、有限を我々は毎日経験しているからです。
仏教では昔、相対性理論を作ってありました。しかしお釈迦様はそれを考えるな、とおっしゃいました。頭の遊びですからね。
相対性理論では一対一でないものもありますよ。例えば四角はどうでしょうか。ほかの形、たとえば三角、六角形、八角形、円形、そういうものの存在があって四角が成り立っています。相対する対象は一個じゃないのです、その場合は。色の場合も同じです。赤は他の色のおかげで成り立っています。
相対性の場合は、2種類があります。残念ながら龍樹*1は一種類しか見つけていないんです。善悪とか、そこだけじゃないやと。しかし大半は二次元性ですね。対立する。すべて観念的なんですね。
つまり、あなたは頭でゲームやったんですけど、その結果は決して間違いではなく、頭の中でゲームやると、誰でも、世に相対論を紹介した偉大なる龍樹であっても同じことです。龍樹でも頭で考えてしまうと、二次元性の相対論になってしまう。
論理を立てたらその論理が自らを崩す理論を持っています。相手の理論を崩すために、自分の理論を出す必要は無いのです。
偉大なる龍樹さんが考えたことも、あなたがいったことと同じことなんですね。そして同じことを、あなたもやっちゃったんですね。これ、実行しようとしたんですね。それで壁にぶつかっちゃったのです。あなたと同じことを、龍樹さんもやっちゃったのです。龍樹は、昔の超が付く立派なお坊さんでしたからね。
坊主だから修行しなくちゃアカンでしょ。世界に初めて相対性理論を出してから、修行してみたらぶつかっちゃったんですね。修行自体が成り立たないんですね。
「これなんか、まずいことになっちゃった、直そう」と頑張りましたが、大失敗で終わっちゃったんです。
龍樹の哲学にひかれる方々は、龍樹が失敗した所までは気づきません。あの方、龍樹は「人間は努力しなくちゃいけない。信仰がなければ」と言いたかったのですが、本も無くなったし、漢文でいくつか残っていて、友達に書いた手紙とかいつくかあってすごくいいのですが、しかし、彼の結束論文しか本物で残っていないのです。
そういうことで、あなたがやったことは、昔の偉大なる人々がやって失敗した所だから、そんなに気にすることはないと思いますけどね。
間違いはこれから私が言うところにあるんですよ。
不幸と幸福を理解するときは頭で考えます。数学で。しかし実際は、今の経験を不幸か幸福かと判断するだけの話なんです。だから「今日は幸福だ」と判断したら、必ず「明日は不幸だ」と判断することにはならないのです。これは因縁*2によって成り立つからです。
今日の幸福を感じて、明日も幸福を感じることは大いにあり得ます。これは因縁だから。今日はリンゴを食べてすごく美味しかった人が、明日もリンゴ食べて「まずかった」ということはないでしょ。しかし、今日リンゴ食べてすごく美味しかったから明日も食べたいなと思ったけど、リンゴが手に入らない。という場合は、「やっぱりね」と不幸を感じるんです。
これ、因果法則*3なんですよ。
昨日、リンゴを食べておいしかった。今日もリンゴがある、やっぱり美味しい。そして明日の分もある。
そこでその人は次に観念を作るんです。
毎日リンゴ食べておいしい、幸福っていうのはちょっとカッコ悪いでしょう、と。「じゃあ明日はイチゴを食べるぞ」と思う。思ったんだけど、自分の観念に反して、イチゴが手に入らないのです。そうすると、「不幸だ」となる。でも「今度はイチゴを食べたい」と思わなかったら、イチゴが無くて不幸と思わなかったでしょう。そこは観念と現実のぶつかり合いでしょう。
「今日が雪降ったら明日は雪が降らない」と決まっていません。だから真理はそこじゃありません。「高い」は「低い」で成り立っているところに真理はありません。ただのゲームです、あれは。
原因をつくるのは毎日の努力ですよ。「私は今日幸福で、明日も幸福になるぞ」と思ったらそうなります。例えば、「今日は幸福になるぞ」と思っていたのに誰かがケンカを吹っかけてくるとする。相手をしそうになるんだけど、そこは自分を制御してケンカしない。幸福になるために、今までとは別な態度をとってみる。いろいろと文句を言われても、「ああ、なるほどね」とか。「あ、そうだったっけ、私はそんなバカなことをしてしまったっけ」とか。そうすると楽しくなってくるでしょ。ケンカしないで相手に勝てる。それで幸福を感じます。
だから、人間は自分の生き方次第で、今日も幸福で明日も幸福でいられるということは、いたって簡単で可能なことなのです。
あなたの場合は、理論があってそれを実践で実証できないだけなのです。
理論だけなら合っています。
数学でもいっぱい理論があるんですよ。実践的に証明できません。数学的な法則が大量に見つかっていますよ。しかし実践的に証明不可能です。成り立たない。
たとえば、1を3で割ると小数点が出ますけど、無限でしょ。数学では無限と言いますが、実践的には当たり前でしょう。糸が一本あって、三等分したかったら、糸を三つに折ってハサミで切っちゃえば終わりでしょう。そのくらい簡単なことが、数学では証明できません。小数点以下が無限に続くばかりで。
そういう場合は、11センチの糸を上げたらいいんです。ちょうど11センチの糸を子供に上げて、「これを三つに切ってちょうだい」と言う。一方で数学者に頼みます。「11センチを三分の一にしたらいくつになりますか?」と。答えられないんです。
そういう単純なところですよ。質問者の方がミスったのは。
現実に、11センチの三分の一の糸を手に取ったのに、数学では証明できない。
そういうことで、頭の遊びはほどほどに。「なまの」生き方をしっかりとやることです。
皆様方は、毎日幸福に生きてほしいのです。
私が言う理論は、昨日より間違えた生き方はしないでください、ということ。それだけ。
昨日より、マシに。微妙にマシ、くらいでもいいんです。
(スマナサーラ長老法話 2013.01.20
法話めもより)
*1:
*2:
仏教講義、7.業と因縁 (1)全てのことに理由がある (No34)
*3:「ある原因とある条件が揃ったところである結果が現れる、その原因や条件が消えればその結果も消える」というのが因果法則です。」