質問
「阿羅漢に達した人々は、死後、肉体が滅びた後は、ろうそくの火が消えるようになくなってしまうのでしょうか?
涅槃の安らぎに達したこころが、消えてなくなってしまうというのは、ちょっと虚無的な感じがします。
それとも、お釈迦様が入っていたような禅定に入っているのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
それは仏教では、役に立たない答えということになるんですよ。
しかし、わたしたちは知りたいんですね。どうなるのかと。
それは物が存在するという錯覚にわれわれがいるからなんですね。だから答えられないんですね。
物が存在するというのは錯覚なんですね。
物が存在するという前提で涅槃に入った人は体が滅びたら、ろうそくの火のようにあっけなく消えてしまうのかと思っちゃうんですね。
問題と言うのは、そもそもロウソクは存在するのかい、ということなんです。
因縁によって成り立っているだけ。一時的な現象なんです。だから、原因条件が壊れただけの話です。われわれもロウソクのように命と言うものを燃やしているんです。それには欲や怒りや渇愛やら、様々な感情で、燃料を入れて入れて、生き続けているんです。生きていきたいという存在欲と怒りと無知でね。それが燃料なんです。それで燃えているだけです。
その程度で理解して終わらなくてはいけないんですね。
無量涅槃というすごい何か境地があるんだよと言っちゃうと、言葉で、頭で考えることだから、「それは違いますよ」と言わなくてはいけない。
涅槃という「境地」は、俗世間の単語で、対象的な単語なんです。対象的な言葉で、単語で、理解不可能だと。だから経験しなさいと言っているんですね。
その程度しか答えられません。
そうすると、「なんかあっけないな……」という気持ちになることはわかりますよ。
だから今日の説法をしたんです。*1
捨てていく世界だと。捨てることというのは、無意味、無駄じゃないんですね。そこで何となく理解できると思います。捨てて得る、捨てて得る。捨てて、意図的に得ようとしなくても、捨てたら何かを得ている、捨てたらまた得ている。
それで価値の低いものを捨てて価値の高いものを得るということに、人生を合わせていく。
すると幸福って何なのかとなんとなくわかってくるんです。今はわかっていないんです。捨てたことによって成り立ったんだと。
それだったら、捨てること=幸福であるならば、一切を捨てることで一切が幸福と言えるような絶対的な幸福でしょう。
これがなんなのかと今の脳細胞では理解できないんです。
そういうふうに、その程度で考えてください。