(すべての悪の親玉「邪見(じゃけん)」とは?【十善十悪(前編)】から続きます)
人間に与えられること、お布施で一番いいのは、法施(ほうせ。人に仏法を説くこと)なんです。それには他のお布施は適わない。
ブッダの教えを教えて、理解してもらえば、その人の人生全体的を心配しない人生にしているんです。
一千万円もらったって、人生まるっきり心配しないでいられる?
説法を聞いて我々は何をするのかというと、邪見を起こす恐ろしいプログラムを治すんです。
頭は変なシステムで、何を聞いても邪見になって終わってしまいます。面倒くさいシステムなんです。
どこからデータを受けても、処理プログラムは邪見という結果を出しなさいということになっています。
ときどきわたしは、仏教徒と名乗っている人々も、ブッダの言葉を聞いて邪見にしているということに気づきます。これは邪見の中で極端に悪い邪見です。
ブッダの言葉を聞いて邪見を作っちゃうと、もう末期ですね。治せなくなります。
だからそういう、仏教徒であっても、伝統的に仏教徒になったとしても、授業を受けて脳をしっかりした状態にしないと、あまり信用できません。いとも簡単に邪見に陥ります。
スリランカで有名な坊主の一人がいて、その人がマスコミに出た瞬間に、この人は仏教にとって相当危険人物だと分かりました。全国的にどんどん人気になり、どんどん金を集めました。スリランカでは、坊主がテレビに出たら、人々はすぐに信じます。ブッダが語ったことと違うことを言っても、人々は気にしません。
スリランカではお坊さんたちは、マスコミに、コネで入り込みます。ディレクターの知り合いとか、コネで入ります。昔は、説法のテストがありました。きちんとお坊さんのリストを作って、説法を頼みました。しかし今はありません。お坊さんはお金も取らなかった。
一般人はちょっと調べれば、マスコミに出る坊主は一部であるとすぐわかるはずなんです。
坊主になったら誰でも、しゃべることは上手になります。小さいころから訓練しますから。アナウンサーより上手です。
スリランカの有名なある一人の坊主は、あまりにもひどいことを言いすぎて、人々から非難されるようになりました。それで暴力的になりました。なんとか立場を回復しようとしましたが、結局マスコミから、世間から消えました。
しかし、ある時、すっかり姿を変えて、再登場しました。この再登場のやり方は、「私はブッダ(解脱した人)である」と宣言してでてきました。「もしわたしがブッダでないと証明できたら、その場で一千万円をあげます」と。
人々はそこまで言うなら本当かなぁと思ってしまいました。
経典によると、お釈迦様も、「わたしがブッダであると調べてください」と言いました。しかし、調べ方も一緒に提示しました。ちゃんと調査のリストがありました。たとえば、「欲が完全にない」とすれば、その人の行動に何か欲が出てくるところがあるかないか全部調べます。しゃべること、考えること、何か欲に絡んだところがないのか、とチェックする。
もしそのスリランカのお坊さんが、ブッダであると証明するなら、その調査をしなくてはいけない。しかし、その坊主はその経典は持ち出さないんです。
なんでこんなことを長々と言ったのかというと、ただ単に仏教を勉強しただけでは危険です、ということなんです。
知識人でよく陥る邪険は、「無我だから輪廻転生はない」というのと、「お釈迦様はヒンドゥー教からパクって仏教にした」というものです。日本仏教はヒンドゥー教から来ているので、そう思ってしまうのです。
「無我だから輪廻転生はない」というのは、因果法則を理解していないからなんですね。それはお釈迦様は、初めから、「これは俗人では難しいので、気を付けて学んでください」と言っています。
因果法則を理解していれば、すべては無常で無我だから輪廻転生するんだよ、と分かります。ものは変化するでしょう。全く無のところから変化するはずがないでしょう。すべてが変わって流れていく。その過程で、「これが『われ』だ」と言えるものはないんです。変化しなかったら、因果法則は成り立ちません。
科学は、因果法則があるからこそ、科学発展があります。
鉄は錆びます。錆びないんだったらもっと役に立つのに、と思ったら調べて、錆びる理由が分かる。そこで錆びない鉄を作る。因果法則がなかったらできないでしょう。
鉄が無常でなかったら(鉄という物質が変化しなかったら)錆びない物質を作ることはできないでしょう。ふつうのスチールと、ステンレススチールとはちがいます。性質は鉄の性質を持っている。でも錆びない。錆びる物質だけ抜けている。そういうふうに科学は因果法則があるから成り立っている。
どこかで、ちょっと滑ったら、物事を無視したら、邪見に陥る可能性があります。
十悪の中で、邪見という言葉を、すごく気を付けなければいけません。
逆に、そこで身を守れば、他を心配しなくていいのです。
「仏教は経典も多くて戒律もあってめんどくさい。わたしは単純だから、邪見だけ気を付けます」ということで、立派な人間になります。
「邪見に気を付けて、判断を間違わないように気を付けます」、これでOKです。
(2014年12月21日 東京・スマナサーラ長老による年末特別法話よりメモしました)