東京・法話と実践会 2015.06.14(日)
http://www.ustream.tv/recorded/63713487
(スマナサーラ長老 )
これから皆さまの質問に合わせて仏道ってどういうものかと説明します。これは人間には理解できないもので、すごい幅広いもので、ですからわれわれはいろいろなポイントからブッダの世界にアクセスできますから、みなさまの素直な質問・疑問・反論、何でもよろしいですので、聞いてみてください。
質問
「慈悲の瞑想について。日々の生活の中で唱えようとしていますが、どうしてもお祈りの言葉と素直に心が合わなくて、どうも言葉だけで、偽善ではないのか? と感じてしまいます。最後のほうの、『わたしの嫌いな人々も幸せでありますように』と素直な気持ちで祈れません。どうしたらいいでしょうか?」
回答
まずあの、これは祈りではないんです。人格向上のプログラムです。
われわれの心は、すごくハチャメチャで間違って機能しているんです。そこを直すプログラムなんですね。パソコンにウィルスが入ったとしてください。そうすると、ウィルスに対応するプログラムがあるでしょう? それをうごかしちゃえば、ウィルスのファイルを削除してきれいにしてくれるんですよ。そんな感じなんですよ。
だからわれわれの心の中で、「自我」、自分のことしか見られない、真理が分からないというかなりひどい欠陥があるんですね。それを、このプログラムを入れて直すんです。
ですから、祈りではないんです。
これは自分の人格向上のためにある修行です。祈りではなく修行だと思ってください。修行って言ったら宗教っぽいんですけど、「実践」ですね、われわれが使う言葉はね。だから若い方々は、「この慈悲の瞑想はウィルスに対するワクチンソフトを動かしているところだ。それで自分の心という機能を直しているところだ」と思えば、結構効き目が出てくるんですね。
これはずっと、誰でもやる瞑想で、わたしたちもやっています。心に怒り憎しみがないからと言って、それならやる必要がないというものではなくて、生きているものなら、命あるものなら、やらなくちゃいけない実践ですよ。
生きているものなら、基本的にやらなくちゃいけない基礎プログラムです。解脱に達した人さえ、煩悩は何もないんだけどやっています。だって生きているんだからね。他の生命に対して幸せになってほしいという気持ちは持つんです。「私は解脱に達しているんだから関係ない」というものではないんですね。だからこれはすごく大事な瞑想でね。
そういうふうにアプローチを変えたほうがいいと思います。それでよくなると思います。
当然な感想ですよ。「嫌いな人も幸せでありますように」と言うと、偽善じゃないかと言うのは心から出てくる自然な反応で、それは構いません。自分で偽善と思ったんだから、やがてそれは直るんです。自分自身は偽善者でいたくないんですね。だったら、続けてやってください。偽善ではなくなっちゃうんです。
それから、祈りではないと覚えてくおいてください。
関連エントリ:わたし以外はみんな嫌いだと分かってしまいました!【慈悲の瞑想】
(笑)それは一つの瞑想の結果だと思いますよ。
だからあなたは、「自己愛」に気づいちゃったんですね。
結局は自分だけ幸せであればいいや、ということをね。あなたは発見したんです。
そこは悪く取らないで、正しく取った方がいいんですね。
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