ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

慈悲の冥想の意味を逆にしてみたら…?|「嫌いな人びと」問題

質問「今日は初めて来ました。慈悲の冥想についてお伺いします。後半部分で『わたしの嫌いな人びと』について心の底から唱えられるようになるにはどうすればいいでしょうか?

 

回答(スマナサーラ長老)

その冥想をやってください(笑) そんなことは考えられないんじゃなくて、考えてください(笑)

「自分がみじめな情けない人間じゃないんだ」「どんな生命であっても、わたしは幸せであってほしいと思いますよ」というのが人格者でしょう。ゴチャゴチャ差別しない。みんな一斉に幸せになってくださいと。

「あなたわたしのことが嫌い? 構いませんよ。それはあなたの自由だからね。わたしはあなたの幸せを願う」という人格者になる道なんです。

 

最初は「そんなことは言えない」と思うと思いますよ。そこはあなたの宿題なんです。まだ人格ができていないなとすぐわかったでしょう。ろくでもない人間だと。それからなんです。わたしは人格者になります、これから、と自分を戒めて続けてみてください。やり方はずっと同じことです。見事に変わってきます。

 

唱えることはちょっと宗教っぽいなと思うかもしれませんよ。唱えること、念じることはちょっと宗教っぽいんですけど、でも、心理学的にそれが必要なんです。

それで仏教は、迷信的なことを言うな、客観的な事実の言葉を唱えなさいとしているんです。

 

ヒンドゥー教だったら神に名前を付けちゃうんですよ。イスラム教だったら神に名前が800か1000いくつかありますけどね。神の名前を唱えるのは、仏教では迷信だから禁止です。だからインド人の中にはハヌマーンと言う猿が神様だと思っている。神話物語ができているんですけど、そのインド人たちはそのストーリーは本物だと思っているんですね。

 

世の中の苦しい状況を見ると、シンデレラ物語とか作りたくなります。そこまではいいんです、文学ですからね。本当にシンデレラ物語は正しい、シンデレラは本当にいたんだと思っちゃうと病気でしょう?

 

ヒンドゥー教もそうなんです。すべて神話物語で組み立ててますけど、神話物語が正しいと思っている。それに人生を入れ替えたりするんですね。そう言いう人々はハヌマーンにも、他の1500くらいの神々にでも、いくらでも名前をつけられるでしょう。それを唱えるんです。それが宗教的な祈りなんです。

 

インターネットでインドのヒンドゥー教にアクセスすれば、いくらでもそういうのがあります。マントラを一万回唱えるとか。ヴェーダ聖典の最初に出てくるマントラを一千回唱えたらこれだけご利益がありますよ、一万回唱えたらこれくらい、なんでも成功しますよと言って、本当に一万回唱えてインターネットに公開しているんです。

 

一時間半くらいかかりますけど、それをそのまま流しちゃえば、自分で唱えなくっても大丈夫なんです(笑)あほじゃないかなと(笑)

では、なんでわたしが聞くのかい、というと、そう言うのを唱える人々がサンスクリット語のプロなんですね。わたしたちも学んでいる言語でしょう。わたしたちの発音より、本場インドの発音のほうが信頼してもいいんじゃないかなぁと。

 

それで立派な歌唱能力のある一流の人々が歌っているんですね。だから声が悪くないんです。ある人の歌を聴いていたんですよ。それでわたしは、じーっと画面を調べたんですね。本人は楽器も演奏しているんです。

わたしは、「これは人間にできる技じゃないんだと。おそらくこれ、(録音したものを)つなげたんではないのか」と。それでじーっと聞いていたんです。

考えてみてください、このわたしの一時間半を。(聴衆爆笑)

 

画面を、一分の百秒であっても見ぬいてやるぞと。音もじーっと聞いていました。しかし、つぎはぎがないんです。

ビックリしたのは、一時間も経っているのに、声の疲れって全くない。それくらいの能力を持っている人間だから、聞いていて悪くないと。その人はちょぴっと褒めてあげてもね。わたしはその人間は褒めたいんです。「大した人間だ」と。でも中身はバカバカしくてあほ臭くて、迷信で。

 

だからあり得ないことを念じると頭が悪くなるんです。幻覚が起こるんです。しかし脳には繰り返しリピートする必要があります。それは心理学的なものです。

 

たとえば、「わたしは決して怒りませんよ」と自分にずーっと言い張ると、怒れなくなります。念じたことは、怒る場面で「あ、怒りませんと決めたのに。そうか、じゃあ怒りません」となる。念じることには、力がありますね。それでお釈迦様が客観的で正しいものを念じさせるんです。完璧に正しいものを。

 

「生きとし生けるものが幸せでありますように」何か間違ってる? 間違っているかどうか分からないでしょう? 

分かる方法はいたって簡単、逆にするんです。「生きとし生けるものが不幸でありますように」。聞いただけで気持ち悪くなるでしょう? 

そんなものは念じたくないでしょう。だから、「生きとし生けるものが幸せでありますように」は正しいんです。

 

「わたしの嫌いな人々は破滅になりますように」と願ったら、シャレにならないでしょう? でも、「嫌いな人も幸せであってほしい」と思ったら? なにかが変ってくる。

そういうわけで、慈悲の瞑想は客観的な事実だから、そのまま唱えるしかないんです。唱えたら心が変わります。

頑張ってみてください。

 

関西月例冥想会 2015.06.07https://www.youtube.com/watch?v=tadfClGVCbo よりメモしました。

 動画上1:21:00~最後まで

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関連エントリ:慈悲の瞑想中、偽善では?と感じてしまいます

当然な感想ですよ。「嫌いな人も幸せでありますように」と言うと、偽善じゃないかと言うのは心から出てくる自然な反応で、それは構いません。自分で偽善と思ったんだから、やがてそれは直るんです。

『私の嫌いな人、嫌っている人も幸せでありますように』とは、思えません!

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