ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

ラベルと中身は違います|無常・無我

質問

「人が車が欲しいと思ったとして、一年なり二年なりお金をためて車を購入したとしたら、そのとき(購入時)の「わたし」は、欲しいと思ってたときの「わたし」とは別人が車を得るんだ、ということが長老の本に書かれていました。

一般的には、わたしが働いて、わたしがお金をためて、「同じわたし」が車を購入したんだという認識をすると思うが、その辺の「別人が~」という部分が実感としてわかりません

 

回答(スマナサーラ長老)

実感としてわからないのは当たり前ですよ。

 

質問者「ほしいと思った瞬間に、懸賞か何かで当たって手に入れたとしても、別人が当選したということですか?」

 

はい。(ほしいと思った瞬間から懸賞で手に入れた瞬間までに)時間がかかっていますね。

懸賞ですぐに当ったなら、本人はすごく喜びますよ。しかし、五年もお金をためて車を買った、あの喜びはないんです。

 

そこで、言葉には意味がある必要があります。

ペットボトルに「○○水」というラベルがあるんだからと言って、そのペットボトルに入れるものはなんでも、たとえばわたしが一番飲みたくない水で言えば、「エビアン」という水がありますね。そのラベルが書いてあるボトルの水を、エビアンと思って飲む。でも、そのペットボトルにはなんでも入れられますでしょう?

そこである人が、その水を捨てて、胡麻を入れる。そして蓋を閉める。ラベルはエビアンです。中身は?

そこで、「これは中身もエビアンだよ」と堂々と胸を張って言う。もう一人は、「いえ、違いますよ。これはエビアンとは何の関係もない、ただの胡麻だ」と。

 

俗世間は、ラベルが変わっていないんだから、中身も変わってない、というスタンスなんです。ここでエビアンというラベルは、「わたし」のことです。

 

五年前、わたしは車が欲しかった。今、わたしが車を買います、と言う。このわたしがラベルなんです。中身は相当変わって、変化しています。

この「変わること」が生きることなんです。細胞が変わっていくことが生きることなんです。分裂するわ、古い細胞が死んじゃうわ、一個の細胞は二~三か月しか寿命はないわ。

そして、「わたし、わたし」というのは「気持ち」のことでしょう。これはこころですから、おそろしく激しく変わるんです。

それで、体に怒りが生まれる。そうすると、「わたしが」怒った、と言うんです。体に楽しみが生まれる。そうすると、「わたしが」楽しい、と言うんです。この「ラベル」なんですよ、ややこしいのは。

 

で、世間は、中身はどうであろうともエビアンのペットボトルは、エビアンに決まっているんだよ、と。青酸カリ入れようが、胡麻を入れようが、ワインを入れようが、知ったことではないと。ラベルはエビアンでしょう、という理屈なんです、世界は。

(質問者が)よくわからない、というのはそのラベルの問題なんです。

 

そこでわたしたちは、ラベルが正しいと錯覚しているんですね。それは錯覚で、本当は変化しているんです。

 

質問者「気づきとか無常がわかってきたら、その錯覚のこともわかってくるんでしょうか?」

 

それがわかってきたら、それで覚りの世界に入っています。

修行しただけで変わるわけじゃないんです、その恐ろしい誤解はね。ちゃんと自分で研究して自分で発見していくと、「あ、ラベルはいらんや」と。ラベルを捨てる、「わたし」という。一番迷惑なのはそれだ、と。今までけんかになったのは、このラベルのせいだと。ラベルがなかったら中身を見て判断するんだから。ペットボトルの。

このラベルを捨てることは、もう覚りなんですね。覚りの第一。

 

だからおっしゃる通り、「わたしたちにはわからない」というのは正しいんです。「だってわたしでしょうに」と。

なぜかというと、その瞬間、その瞬間の感覚に「わたし」と言っているんです。いつでも感覚はあるんです。しかし感覚は変化するんだからこそ、感覚なんです。変化がなかったら感覚は生まれません。

手は何か触ると、感覚が生まれるんです。それで触ったものが何かとわかるんですね。だから手で、指で、何か違うものを触るたびに感覚が生まれるでしょう。その一つ一つに、「わたし、わたし、わたし、……」と言い続けちゃうんです。

 

だからこの、体中の感覚というのは恐ろしく変化し続けているんです。手を置いておいても、感覚で知っています。手を上げたら? 知っています。手が上がっているんだと。感覚が変わったことを知っています。それを翻訳するんです。「半分上がっているんだよ」と。これは単純な翻訳で、障害の一つなんです。こころに障害というものはいつでもありますからね。自由じゃないんです。本当は、手が下にあるとその感覚がある。それを上げていくと別の感覚が生まれつつ、生まれては消え、生まれては消え……。それを翻訳して、「手を半分あげました」「手をいちばん上まで上げました」とかね。それは翻訳です。

 

そういうことで、「わたし」っていうのは、ラベルです。残念ながらその中身は、瞬間たりとも止まることなく変化しているんです。それはお釈迦様が発見した事実です。

だから、われわれは錯覚・幻覚をみています。そこは冥想して発見する。発見するのは難しくない。だって事実ですから。それ以外何も発見しません。無常であること以外。

はい、そういうことを理解してください。

 

関西定例瞑想会 2010.01.17

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/1045306.html よりメモしました。

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関連エントリ:無我って怖すぎ?【無常・無我】前編

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