前回
覚ったときは、偈を三つ唱えました。
しかし伝統的には、最初の言葉として言っていないんです。その偈が頭の中に浮かんだだけだと。お釈迦様が世界がどうなっているのか、どうしてこの現象世界が現れたのかということは、覚ってから、普通の人間の概念を使って考えるんですね。
真理は概念がないし、言葉もないんです。
真理は措いておいて生命のことを考えたときに、十二因縁の流れを発見するんですね。だからみんな苦しんでいるんだと。無明で。
それから、「わたしはやっぱり、覚りに達しました」という覚りを表現する偈を唱えたんです。
それは皆さまも暗記していると思います。
Aneka jāti saṃsāraṃ,sandhāvissaṃ anibbisaṃ;
Gahakāraṃ gavesanto,dukkhā jāti punappunaṃ.
Gahakāraka diṭṭhosi,puna gehaṃ na kāhasi;
Sabbā te phāsukā bhaggā,gahakūṭaṃ visaṅkhataṃ;
Visaṅkhāra gataṃ cittaṃ,taṇhānaṃ khayamajjhagā.
無数の生涯にわたり、あてどなく輪廻をさまよってきた、
― 家の作者を探し求めて。
さらにさらにと、生まれ変わるのは苦しいことである。
家の作者(渇愛)よ、汝の正体は見られたり。
汝が家屋を作ることはもはやあるまい。
汝の梁(煩悩)はすべて折れ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。
形成するはたらき(行)からこころは離れ、渇愛を滅ぼし尽くした。
(訳・パーリ語日常経典より)
家を作る原因を壊しましたよ、と。
なぜかと言うと、輪廻が苦しいから。再び生まれることは苦しいから。
今わたしのこころは何一つない、と。
わたし個人(長老)の言葉で言えば、宇宙のように、なんの制限もないこころになったんだ、と。
それで四十年間説法しました。
はい、それではポイント。
覚ったことがなんですかね? ゴールです。
生まれたことも? ゴールです。
覚ったことで、胸に触れたテープを切って行っちゃったんですね。
だからこの二つの出来事は、煩悩をなくす、覚りに達するという真理の見方からみると、同じ出来事に見えます。
俗世間的にカレンダーを見て何年何月、ということではなくて、こころの見方からすると同じ出来事です。
(続きます
スマナサーラ長老・ウェーサーカ祭 午後法話 mayadevi 2016.4.29
https://www.youtube.com/watch?v=vYomM7Q2ROY&feature=youtu.be(期間限定公開動画)より書きました。
関連外部サイト:
巻頭法話(70)『知っているつもり』の苦しみ 2000年12月
生まれては死ぬ、また生まれては死ぬ、という限りない回転を、お釈迦さまが、はじめて破ることに成功しました。これは、認識のメカニズムから考えると、不可能なことです。あり得ないことです。この成功には、さすがのお釈迦さまも驚きました。生命が知ったつもりでいて、なにも知らないということに『無明』(avijja^)と名付けられました。