質問「『般若心経は間違い』という本を読みました。
そこで聞きたいのですが、「私」という我が修行によってなくなるのですか?
はじめから我がないのを気づいていくのが修行なのですか?
我について、蜃気楼のたとえがあったと思います。船が光の屈折で空に写っている。船自体があってはじめて成り立つ。では、船自体はいかなるものなのですか?
素粒子が波であり粒子であると。素粒子自体が、両方の性質を持っているのは理解しがたい。そういう意味で我々にも蜃気楼は理解しがたいものかなぁと思います。
毎日我々の体の組織は毎日入れ替わっている。にもかかわらず次の日に起きたとき、私は「私」だと感じている。無我と言われると、非常に不安に感じます。記憶喪失などを考えると私が誰であるかということが大事なことだと思います。
そういう意味で、無常である、自分がないということは不安な感じがします」
回答(スマナサーラ長老)
変わらない私、霊魂、と言うのは成り立たないというのが仏教の考え方なんですね。
我がない、と。それは俗っぽい言い方ですが、我が成り立たないということなんですね。
どうしてお釈迦様がそれを何度も言わないといけないかと言うと、すべての生命は「我がある」と言う前提で生きているんです。
ではあらゆる生命は「我」について調べたのかと言うとそうではないんです。ただ生まれたら、「我はいる」という前提で生活する。どんな生命にもある感情です。
しかし客観的に調べて、調べて、調べていくと、我が成り立たたない、という結論に達するんですね。
そこでなぜわれわれには自分がいるという実感が、どのようなカラクリで起こるのかとお釈迦様は調べたんですね。それで発見した教えが、因縁説、因果法則、ですね。一切の現象は因縁で成り立つ。だから一時的。それが客観的な事実。
誰にも分るわけじゃないんですよ。研究しなきゃ、調べなきゃ。
調べれば分かるんです。
それで質問の答えなんですけど、「修行で我がなくなるのか?」と聞かれれば、なくなりませんよ。だって初めから我はなかったんだからね。
ないものはどうやってなくなるんですか?
こう考えれば分かりやすいですよ。
「あなたに尾っぽが何本ありますか?」と言っても、初めから尾っぽはついてないからね。
しかしある人が、自分には尾っぽが付いているんだ、他の人間にはないんだ、とあまりにも信じていたら? 精神病になってしまって、本気でそう思っている。
その人が瞑想修行をする。それで精神病が直ったとする。「あれ、わたしの尾っぽがなくなった」と言うのは正しい? 正しくないんです。初めからなかったんですから。病気が治っただけ。
何も損していません。ただ病気が治っただけです。
そういうわけで、ブッダの修行すると、瞑想を実践すると、我がなくなるんじゃないんです。尾っぽが見えるという、病気が治る。
尾っぽがあると自分で思い込んでいる人は、尾っぽがあるから自分が笑われたと、邪険にされたと、仕事の面接に落とされたと感じる。「やっぱり、わたしには尾っぽが付いているからだ」と、あらゆる悩み悲しみを感じていたんですよ。原因は? 自分には尾っぽがあるという思い込みです。
世界に問題があったんじゃなくて、この人の思い込みに問題があったんですね。
それは治療で治す。治ったら、物事が明確にありのままに見える。
ですから尾っぽがないと発見したんじゃなくて、尾っぽがなくなったわけじゃないんです。これは言葉の遊びのように感じますけど、実は大変な問題なんですよ。
何かがなくなった! ということと、いいえ、初めからなかったんだ、ということは大変な差がありますよ。何かなくなったなら損しているでしょう。
初めからなかったと分かったら楽ですよ。
もう一つたとえ話をしますよ。
家が火事になった。家に子供がいたんです。それでもう、調べたら、いない。家が火事になった、それで子供がなくなったといえば、大変でしょう。それでさらに調べる。調べると初めから家に子供はいなかった。そこで、「おかあさん、火事になった時、家に子供はいなかったんですよ」と言われたらどうですかね? この差は。
そういうことで、初めからなかったというのと、なくなったというのは、大変な差があります。
何がなくなるのかと言うと、われわれの誤解、幻覚、自我があるんだという思い込みがなくなるんです。
修行で、このプロセスが見えてくるんです。
地球が丸いというのは、初めから平らで後から曲がって丸くなったわけではないんですね。
だから論理的に、有るものが無くなるというのも、無いものが現れるというのは、成立できない言葉なんですね。
無いものが現れた、有るものが消えました、どちらも成り立たないんです。
そういう論理はお釈迦様が否定しています。
ですから、因縁性で、仏教は極論に立たない。中立で、中道というんですね。
そういうことで、すべての生命には、自分がいるという実感があるんですよ。それで生きているんだから、無我と言われると不安になります。
結構不安がる可能性があります。
どれほど不安になるかというと、お釈迦様は初めから「無我で、因縁性です」と言われたのに、涅槃に入られて100年も経つと、仏教の中からあらゆる工夫をして「何か実態があるんだ」という必死で言いたがる声が出てきたんですね。
「我」と言う言葉を使わないようにだけ気を付けて。それを使っちゃうとやられますから。その代りに他の概念を作るんです。法身とか仏性とか。何か変わらないものを作ったりするんです。
結局は永遠不滅の我があるんだというところに戻ってしまったんです。ブッダの話は消えてしまった。元の原始人の話に戻りました。
これくらい人間が、我と言う幻覚に頼っているんです。
いろんな苦しみがある。いろんなトラブルがある。どうしますか? それはそのうち無くなりますよと。山があったら谷がある、これからよくなるんだよと言う幻覚に頼る。そういうふうに現在の苦しみを無視することができるようになっているんです。期待、希望、願望です。
これは、ぶら下げられたニンジンに喩えます。
いくら進んでも、ニンジンを食べられない。
これは弱い人の立場なんですよ。弱い人には、でっかい夢を与えないと落ち着かないんですよ。
死にかけている人がいる。科学的にはお手上げ。それでもでっかい夢を与えるんですよ。そうすると落ち着くんです。お医者さんが、嘘ででも、「あなたの病気に的中する治療法がありますよ。しかしまだ許可下りてないから、手続きを急いでやっているところです」というと患者は落ち着くんですよ。
そんな感じで、天国の話やら、阿弥陀さんの話やら、次は大丈夫だという夢を人間に与えて、何とか落ち着いてもらっているだけ。
しかし、落ち着いてもらうことが答えじゃないんですね。
わたしたちが言っているのは、最初から落ち着けと。人生は山ばっかしやと。
目覚めなさいと。
明るい将来って何言っているんですか。毎日年を取るでしょう。ふざけて遊んでいる場合じゃないんだと、応援するんですよ。それで、負けないぞ、やってやると思うと、うまくできるんですよ。
それでまた気分がよくなって怠けてくると、またわれわれは落とす。それで、じゃあやってやる、となる。繰り返しです。
それが、夢を与えないで人を応援する方法です。
あらゆる苦しみに対応できる精神を作ってあげるんです。
高校より大学は苦しいし、仕事が始まったらもっと苦しいし、退職したらさらに苦しいし。
明るいか暗いかそんな話はやめて、毎日大変だ、でも今日一日くらい何とかできそうだという、冷静さが必要です。生きる上で。
生きると言っても、やむなく生きているだけでしょう。生きる羽目になったんだから、そこでうまくやったらいいんです。
生きるということにはめられているんですね。
そんなくらいの感じで、客観的に生きる。
どうしようもない、はめられている。だから、うまく、ここから抜けだしてみるぞと。
それが健康な時の、元気な時の人間の生き方です。
しかし病気になって死にかけているときはそんな話は通じないでしょう。
(無我って明るい!【無常・無我】中編 へ続く)
(関西定例瞑想会 2008.02.22
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/800578.html 音声ファイル・下からメモしました)
関連エントリ:
すべての「説法めも」を読むには: