ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

無常と覚り

質問

「こころをきれいにするということと、ヴィパッサナー冥想で無常を知って覚りを得ることの関連性がわかりません」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

こころが汚れているのは、邪見のせいです。邪見とは誤解ですね。

「わたし」が何かと知らないし、わたしが認識している世界が何かと知らないんですね。それで頭の中でいろいろ意見を作るんですね。頭の中で作る意見はすべて、邪見ということになります。

 

なぜならば、誰でも意見を作る前に、徹底的に調べて研究して作るわけじゃないんです。「見ました、決めた」「聞いた、決めた」と瞬間で意見を作るんですね。調べて調べて、意見を直しましょうと思ったら、結局は今までの意見を並び替えて決めるんだから、同じことなんですね。ただ邪見の並び替えだけになるんですね。

 

そういうわけで、世の中やわれわれのこころの中でいつでも邪見があります。

 

それで邪見はなんぞやというと、どうしても物を見ると、「(そこに)ある」と見るんですね。われわれは、ある家を見る、ある花を見る。いる人を見る。聞く場合も、ある音を聞く。

 

つまり、物が「ある」という前提で認識するんですね。次に、(そこに)ある花を見るわたしがいる、ということになるんですね。花がある、それをわたしが見る。ある花を見ることができるわたしがいる。それは認識の基本的な前提になっているんです。しかし、その前提二つが間違っているんです。それから何を考えたって、あまり意味がないんです。「ある」と「いる」という前提で始まりますからね。

 

お釈迦様が、その「ある」と「いる」の前提は何なのか? と。どうやってできるのかと調べました。世界で誰もやっていませんでした。

「物はある」、その「ある」ものは何なのかと調べるだけなんです。「人間がここにいる」と決まっている。それで「だれが作ったのですか?」と「誰が作ったのか」そればっかりを世界では言っている。誰が作ったのかと言う前に、「作ったものはあるのか」、「考える自分はいるのか」ということは考えないんですね。

 

どんな宗教でも哲学でも、結局同じことを言っています。全然新しいことを言っていない。誰かが言ったことを、言葉をちょこっと変えて別の人が言うだけ。ユダヤ教が言ったことは、言葉を変えて、新しい宗教を作るんですね。だから中身は同じなんですね。その教祖様を強引に決めるんですね。イエズス様を強引に開祖様にする。

それで次に言語を変えて、アラビア語コーランを作るんですね。コーランユダヤ教からの転載ですね。

そういうふうに、新たな宗教もたくさん出てくるでしょう。おんなじことです。

 

問題は、この「ある」「いる」なんですね。

 

インドでお釈迦様の時代には、「ある」「いる」の問題に気づいている人はいたんです。しかしその人々は、「ある・いる」はおかしいでしょう。だったら、「ない」だと考えました。反対語ですね。

 

で、「ない・いない」という哲学宗教が生まれましたが、それは分派が生まれてこないんですね。生まれるはずがないんですね。「ある」と言ったら、いくらでもあるんだから分派を作れますよ。「ない」、「無」は、一つしか出てこないんですね。だからちょっと数が少なかっただけ。

 

それをお釈迦様から見ると、「これは同じことでしょう。人間の脳は、「有」と「無」だけしか動かないでしょう。たとえばここに、バラの花がある。それをどこかにもっていったら、バラの花がない、ということを認識するんです。

お釈迦様は「本当にあるということを認識したのか?」と。認識していなんです。ある、ということに対して逆の「ない」が出てくるだけ。

 

ここにバラの花を置いておく。それから、すぐそれを消しちゃう。そうすると見ている人の頭の中に、バラの花があって、部屋があって、引き算すればバラの花がない。それだけで、前はバラの花もあった部屋だった。今はバラの花がないだけ。「ない」ということは認識できない。「ある」の反対としての「ない」なんですね。

 

だから人間には「ない」というためには「ある」が再び必要になっちゃうんです。

 

結局は同じこと。「ない」ということが世の中になければ「ある」ということは言えないんです。

空想の世界のヒーロー物語、マンガの世界でいろんなキャラクターがある。現実の世の中には存在しないものでしょう。では、しっかり見てください。世の中に存在しないイメージは、一つもないんです。わたしたちには、全く認識したことのない何かを新しく作るということは、不可能です。

どんなエイリアンの物語であっても、どんなSFの物語であっても、ぜんぶあるもので組み立てる。組み立てるときは、人間の欲望で、希望で、どう組み立てればいいかという風になるだけ。

 

だからわれわれの言語はいつでも二次元なんです。イエスかノーか。有るか無いか。

 

そこでお釈迦様が、二次元論ではなく、別なものを発見するんですね。「あるとはなにか。ないとはなにか」。

「こういう、こういう、こういう理由で、バラの花がある、となります」「それから、こういう、こういう、理由で、バラの花がない、となります」そこで因果法則になるんですね。

 

だからうかつに、「ある」とも「ない」とも言うなよと。どちらも極論だよと。どちらを言っても原因によって現れるという真理が否定されます。しかし、実際に起こった真理はそれしかない。そういうふうに因果法則を発見して、中正(ちゅうせい)の教えになります。

 

こころはなぜ汚れているのかと言えば、今まで話した理由で汚れているんです。

バラの花があると言ったら、「ああ、なんて美しいんでしょう」と、こころが汚れる。バラの花がその場でつぶされてしまったら、「ああ、なんてかわいそう、もったいない」となる。「ある」というところで欲が生まれて、「ない」ということで怒りが生まれました。

こちらに突然、蛇が現れたら、「嫌だ、こわい」と怒りの激しい感情を作る。そして蛇が消えたら、「ああ、よかった」と安心する。このとき欲は生まれません。怒りの次に生まれるのは無知なんです。

 

欲は簡単に怒りに変わりますけど、ワンステップ、無知のステップが必要なんです。すごいバラの花があって、美してたまらない。それを誰かが横からとってしまうと、その瞬間はボケっとするんですね。それが無知です。それから怒りが生まれて「なんてもったいないことをするんですか」と言う。そういうワンステップが必要なんです。

 

怒りの場合は、怒りが消えちゃったら、無知がつながっていくんです。だから、世間が楽しくて欲張ったりする人よりも、怒る人のほうが無知に強く攻撃されます。どちらでも、欲と無知、怒りと無知、という設定ですから、誰でもあほなことをします。必ずと言うほど自己破壊に行きます。自己破壊の場合は、怒りの人のほうが早いだけ。

 

そういうことで、誰のこころも汚れます。それで、ヴィパッサナー冥想してみると、「あるともないとも言えないでしょう。現れては消える、現れては消えるだけです」とわかるでしょう。それが無常っていうことでしょう。無常を論理的に説明することが因果法則なんですね。どんなからくりでしょうかと、じわじわと見えてくるんです。一つのからくりがわかったらそのほかも同じからくりだとわかるでしょう。

 

無常を発見した時点でこころは汚れなくなります。

 

関西定例冥想会 2010.03.07

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/1082486.html よりメモしました。

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関連エントリ:物質と心の働き。原子も、電子も、素粒子も、心も、無常ならざるものはない【アビダンマ】

なんで原子は見えないのか、なんでエレクトロンなど、計算はできますけど、手で取って「これがエレクトロンだ」とは言えないでしょう。光もありますけど、光と言うのは素粒子でしょ。「はい、これが素粒子」と手に取って言えますか。なのに、そこまで知ったらよくわかることは、自分の気持ちと言うのは好き勝手に変化するんです。

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