「四念処 法の観察」 スマナサーラ長老法話
眼耳鼻舌身意について(2016年東京ウェーサーカにて)
http://www.ustream.tv/recorded/86877225 (期間限定公開動画)
ヴィパッサナー冥想は四念処経に基づいてやるんですね。
そこで、身・受・心・法という、体を観察する・感覚を観察する・こころを観察する・ありのままの真理を観察する、という方法ですね。これは歩く冥想などなどによって、自動的にこころが成長して、それぞれのステージに行くんです。無理やってもあんまり意味がないんです。
しかし、なかなか進まない場合は、同じヴィパッサナー冥想を、ちょっとサマタ方法に入れ替えて訓練するということもあります。
それで法の観察が四番目なんですね。一番智慧がある人々がやるセクションで、いくらかサマーディ冥想にも入るようにと紹介したいと思います。
「わたし」というのはどうやって自覚が生まれるのかというと、眼耳鼻舌身意という感覚器官の働きなんです。
別に「わたし」がいるわけじゃないんです。この感覚器官六つの働き方によって、虹みたいな感じで、蜃気楼のような感じで、見えてくるんですね、「自分」が。
暑いときに、あるカラクリがあって蜃気楼が見えるんであって、蜃気楼自体が実在するわけじゃないんです。カラクリがあって目の錯覚が起こる。
それで、眼耳鼻舌身意、六つ。それはこういうふうに観察します。
これから言う言葉の意味を理解して、冥想だということで、丁寧な気持ちで唱えてください。
まず、眼。
「眼」
この眼は変化するもので無常です。
この眼はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものではありません。
わたしのものにならない眼に執着しないように励みます。
眼に入る色(しき)という見える対象は、変化するもので無常です。
眼に入る色(しき)という見える対象は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない眼に入る色(しき)という見える対象に、執着しないように励みます。
眼に見えるものが触れることによって、眼の感覚が生じます。
眼の感覚は変化するもので無常です。
眼の感覚はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない眼の感覚に執着しないように励みます。
眼の感覚から眼識(がんしき)が生じます。
この眼識は変化するもので無常です。
この眼識はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない眼識に、執着しないように励みます。
眼識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。
この眼識から生じる煩悩は変化するもので無常です。
この眼識から生じる煩悩はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならないこの眼識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。
(「眼」の章おわり)
「眼はわたしではありません」。六つの器官をまとめて、「わたし」という錯覚が生まれる。それを自分に言い聞かせちゃうんですね。「眼に見える対象も、わたしではありません」「わたしのものでもありません」。
眼は「わたしの眼」とは言えないんですね。眼は眼の勝手です。わたしに管理できない。だから物があったら眼識が勝手に生まれるんですね。「わたし」には赤いものを黄色いとみることができない。
だから、わたしの管轄外だから。管轄外のものは「わたしもの」じゃないでしょう。
そうやって感覚が、煩悩が、思考妄想が、生まれる。思考妄想も、そのように勝手に、無常で、「わたしではありません」と捨てちゃいますね。
次は「耳」です。
「耳」
この耳は、変化するもので無常です。
この耳は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない耳に、執着しないように励みます。
耳に触れる音は、変化するもので無常です。
耳に触れる音は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない耳に触れる音に、執着しないように励みます。
耳に音が触れることによって、耳の感覚が生じます。
耳の感覚は変化するもので無常です。
耳の感覚はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない耳の感覚に、執着しないように励みます。
耳の感覚から耳識(じしき)が生じます。
この耳識は変化するもので無常です。
この耳識はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない耳識に、執着しないように励みます。
耳識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。
この耳識から生じる煩悩は変化するもので無常です。
この耳識から生じる煩悩はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならないこの耳識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。
(「耳」の章おわり)
はい、次、ちょっと集中してください。
本当は眼が一番簡単です。
つぎの三番目は「鼻」。鼻の世界だけ考えてください。鼻と言うのはこの鼻(指さして)です。こちらの飾ってある花ではないんです。この、「鼻の世界」。そこに自我が生まれるんですね。でも無常ですから、そこに自我はありません。「そこにわたしはいません」ということで、思考を集中してみてください。
「鼻」
この鼻は変化するもので無常です。
この鼻はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない鼻に、執着しないように励みます。
鼻に触れる香りの対象は、変化するもので無常です。
鼻に触れる香りの対象は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない鼻に触れる香りの対象に、執着しないように励みます。
鼻に香りが触れることによって、鼻の感覚が生じます。
鼻の感覚は変化するもので無常です。
鼻の感覚はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない鼻の感覚に、執着しないように励みます。
鼻の感覚から鼻識(びしき)が生じます。
この鼻識は変化するもので無常です。
この鼻識はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない鼻識に、執着しないように励みます。
鼻識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。
この鼻識から生じる煩悩は変化するもので無常です。
この鼻識から生じる煩悩はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならないこの鼻識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。
(「鼻」の章おわり)
次は、自分の「舌の世界」。このように仏教では「世界」と言うんです。眼の世界、耳の世界……。そこは無常で変化する。
「わたし、わたし」とわれわれは、identify、自分だと勘違いする。自分ではありません。それをよく理解して六根にいったら、自分が消えちゃうんです。
「舌」
この舌は、変化するもので無常です。
この舌は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない舌に執着しないように励みます。
舌に触れる味は、変化するもので無常です。
舌に触れる味は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない舌に触れる味に、執着しないように励みます。
舌に味が触れることによって、味の感覚が生じます。
味覚は変化するもので無常です。
味覚はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない味覚に執着しないように励みます。
味覚から舌識(ぜつしき)が生じます。
この舌識は変化するもので無常です。
この舌識はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない舌識に、執着しないように励みます。
舌識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。
この舌識から生じる煩悩は変化するもので無常です。
この舌識から生じる煩悩はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならないこの舌識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。
(「舌」の章おわり)
次に自分の体に集中してください。
「身」
この身体は、変化するもので無常です。
この身体は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない身体に執着しないように励みます。
身体に触れる対象は、変化するもので無常です。
身体に触れる対象は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない身体に触れる対象に、執着しないように励みます。
身体に対象が触れることによって、身体の感覚が生じます。
身体の感覚は変化するもので無常です。
身体の感覚はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない身体の感覚に、執着しないように励みます。
身体の感覚から身識(しんしき)が生じます。
この身識は変化するもので無常です。
この身識はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない身識に、執着しないように励みます。
身識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。
この身識から生じる煩悩は変化するもので無常です。
この身識から生じる煩悩はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならないこの身識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。
(「身」の章おわり)
最後は、こころですね。仏教では「意」と言います。意識の意。
これはちょっと難しいかもしれませんけど、冥想する方々にとってはそれほど問題ではないと思います。
「意」
この意という認識機能は、変化するもので無常です。
この意という認識機能は、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない意という認識機能に、執着しないように励みます。
意に入る法というものごとは、変化するもので無常です。
意に入る法というものごとは、わたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない意に入る法というものごとに、執着しないように励みます。
意にものごとが触れることによって、意の感覚が生じます。
意の感覚は変化するもので無常です。
意の感覚はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない意の感覚に、執着しないように励みます。
意の感覚から意識が生じます。
この意識は変化するもので無常です。
この意識はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならない意識に執着しないように励みます。
意識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。
この意識から生じる煩悩は変化するもので無常です。
この意識から生じる煩悩はわたしではありません。
因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。
わたしのものにならないこの意識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。
(「意」の章おわり)
これは六根に関するヴィパッサナー冥想で、サマタ冥想にもなります。
お釈迦様の時代にも、お釈迦様はかなりいろんな経典で、いろんな方法で、このように、覚りに達しないお坊様たちを誘導するんですね。このくらい言ったら覚るというケースはたくさんありましたけど……。こちらは……ないでしょうね、おそらく(笑)。
しっかりと『実感的に』行けば、ものすごい智慧が現れます。
最後にお釈迦様のまとめた言葉を唱えます。
お釈迦様の言葉パーリ語(動画38分頃) sabbe sankara aniccha......
「一切の現象は無常であると智慧で発見するとき、苦に対して、輪廻転生に対して飽きるのです。これこそが解脱への道です」 (日本語訳)
✨✨✨✨この功徳を生きとし生けるものに回向いたします ✨✨✨✨
dukkhappattā ca niddukkhā,
bhayappattā ca nibbhayā.
Sokappattā ca nissokā,
hontu sabbepi pānino.
苦しんで悩む生命が苦しみなく
恐れて悩む生命が恐れなく
悲しんで悩む生命が悲しみなく
一切の生命が安穏でありますように