(東京法話と実践会 スマナサーラ長老法話 2015.07.12
http://www.ustream.tv/recorded/67329399(期間限定公開動画)よりメモしました。)
今日、なんか朝突然思い浮かんだ言葉がありまして、それを説明します。
差別、区別、分別という言葉です。
日本語なんですけど、仏教の世界にある一般的な仏教用語です。国語辞典を引いて、「ああ、わかりますよ」ということじゃなくて、すごく勉強するところがあります。
じゃあ、差別とは何ですか? 辞書にあるように差別は差別ですね。その場合は、仏教的な説明は、自分という立場から、エゴという立場から、「わたしは偉い、正しい」という立場から世の中を見ると、頭に入る知識は差別なんです。
たとえば、「あなたはうるさい」とかね。「あんた間違ってる」とか。「あなたは性格が悪い」とか。「あんた気持ち悪い」と、いろいろ言うでしょう。すべて差別なんです。
法律で決められている差別用語を使って身を守っているだけでは、十分じゃないんです。差別は罪です。悪です。字が中心に物事を見て判断する、そのたびにわれわれは、悪行為をして自分の墓穴を掘っているんです。
他人を見て「カッコ悪い」と思ったかもしれません。ただちに、これは差別です、とすぐに自分を戒めなくてはいけないんです。必ずその時気持ちが悪いんです。差別の九十パーセントくらいは怒りなんです。電車に座ったら、「イヤだ。この人は」と思ったら差別なんです。自分を中心にして考えたんですね。自分の都合で。そのとき、罪を犯しているんです。
しかし、女性に絡んでくる男性に「何をするのか」というのはいいんです。その場合、身を守ることだから差別にならないんです。なぜならば、自分のプライバシーを侵害されることから身を守る行為だからです。それは自我じゃないんです。自分には、自由に、人に迷惑をかけずに生きる権利があるんですね。それを誰かが、自分の許可なく、自分にいろんなことを言ったり、体を触ろうとする場合は、攻撃対応をすることは差別に入りませんね。これは自我を守ることじゃないんですね。
そのとき、われわれも怒って罪を犯すことがあるんだから、そのとき頭に浮かべる単語は、「人権」なんです。プライバシーなんですね。
ひとりひとりの個人に人権があって、自由に生きる権利があるんですね。それはすべての生き物にあるもので、「わたしはわたしの分を守ります」とやると怒りにはならないんですね。
そうではなくて、女性はよくやりますけど、隣の人を「イヤや、この人は」と思ったりするでしょう。それは罪なんですよ。特に女性の場合多いんです、それが。だから世の中で、苦しい目に合っているのは男性より女性なんです。大変なんです。男たちに悪口言っても仕方がないんです。ずっと朝から晩まで差別で、生きているんだから。幸福になるどころじゃなくて、毎日大変で生きているんだから。いろんなことをやらなくちゃいけないし、何から何まで問題、問題、問題で。
世の中にある治療、薬っていうのは九十パーセント、誰のためにあるんですかね? 女性でしょう。テレビ番組見ると、全部女性の体の問題ばっかりで。たまに男性の健康のことをしゃべっているんですけど。
でも女性は長生きする生物でしょう。これが早く死なないんですね。さらに苦しみが長いということで。
これも気を付けてください。性別で思考パターンが変わるんですね。男性には男性の思考パターンがありまして、女性には女性の思考パターンがありますね。どちらも主観ですけど、これはもうどうしようもないんですね。その思考パターンで、差別的に自分が考えることが多いかもしれません。しかし女性は、ずっと人を差別して行動するわけじゃないんです。差別して徹底的に行動するってことはないんですね。
昔、「女性党」という政党があったんです。今もあるかどうかわかりませんけど。今、テレビ見ないんです、わたしは。年寄りだから見ても意味がないしね。俗世間とは関係ないんだからね。
その女性党の宣伝文句は、「女性のために、女性が政治する、女性の政党」なんかを作らなくちゃいけないんだとかね。わたしは女性が政治に参加するべきだと思うんだけど、女性たちが政権をとってもいいんだけど、「女性のためだけの政党」と言ったら、これは明らかに、ダメなんです。政治は、男・女・年寄り・子供、みんなのためにあるものなんですね。それを男がやろうが女がやろうが、どうでもいいんです。
だから、この女性党はものすごく差別政党なんですね。「あんたがたは長持ちしません」と思いました、そのときは。だって、男性に、旦那さんにも投票できないでしょう? 男性に投票してもらわなきゃ、女性リーダーは成り立たないんです。
そこは女性の差別意識が、なんとなく表に見えたケースなんですけど、そんなに欲は見えませんでした。
でも、女性同士で、激しいいじめがあるんじゃない?
この間、ある男の子が、いじめについていろいろとわたしに話してみたんですけど、わたしは子供たちの間でいじめはなくならない、というスタンスで、その子もよく知っているんですね。
男の子は、「いじめは絶対なくならないと思いますが、これはどんなことで悪いっていうのか?」と聞くので、わたしは「子供たちはふざけて遊んで、大人だったら常識的に考えてやらないこともやる。それは子供たちの世界で蹴ったり踏んだりけんかしたりするのは、それが普通です。それが度を越しちゃうと、いじめです」。
「お前は馬鹿だ」とかなんとか、言ってもいいんだけど、あるリミットがありますね。
そこで「度を超す」とはどういうことか? それは人権侵害です。相手のこころが傷ついたら、あんたは度を越していじめをやっているんだと。それは罪でしょう。
「お前は馬鹿だ」と言われた本人は、それについて、怒ったり笑ったり無視したりしても、人権侵害にならない場合は、こころが傷ついてないんですね。だからこころが傷つかない程度で、自由に生きている場合大丈夫だと。
そういうことを教えて、もう一つ質問がありました。その男の子は、誰かがいじめられているところに割り込んで行ったんですね。その子が言ったんです。
「わたしはいじめというのは男がやるものだと思っていたけど、見てみたら女もやっていますよ」
わたしはその子に、「あんた、女の世界を知らないからね。男のいじめとは違いますよ。ものすごくきついんですよ。われわれ男たちはけんかして、体中泥だらけになってもそれで終わりでも、女はそうじゃない。すごく残酷にいじめるんだ」と。
それでその子は英語しか読めないけれど、英語で書いてあるのも読むと、女同士のいじめっていうのは信じられないくらいすごいんですね。
そういういじめは差別ですね。明らかにね。
この言葉を覚えておいてください。差別っていうのは、自我・わたし、という気持ちが入った途端、「わたしが正しい」というスタンスです。それで世の中を認めない。それが差別なんです。
面白いことは、自分と同じようになってほしいような態度で、「あなたの髪型はおかしいんじゃないか。太り過ぎではないか」と言ったりするんだけど、もし自分と全く同じ人がいても嫌なんですね。
だからこれは恐ろしい病気になっているんですね。同じくなっても悪い、違う人間になっても悪い。それでいじめる。「あんた、これが悪い、あれが悪い。センスが悪い」とかね。それは自我であって、罪です。
(覚りの世界|2.区別に続きます)
関連エントリ:ブッダは女性差別者ですか?【日本のお寺 5】
すべての「説法めも」を読むには:【目次】説法めも