質問
「以前、とある仏教書の本を読んでいて、仏教には「感謝」という概念がないと読んだ記憶があります。わたしたちが生活していくうえで、親に感謝したり、何かに感謝しなさいと言われて大きくなってきたつもりですが、感謝という概念はどう理解すればよいのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
読んだ本が間違っているか、あなたの理解が間違っているかではないかと思います。
そこがはっきりしないので答えにくいですね。
質問者「確か、あの本は上座仏教に関する本だったと思いますけど……」
どんなスタンスで書かれたのかがわからないですね。
仏教では、一般人にはね、徹底的に感謝ということを教えているんですよ。感謝しなきゃけしからんと。理由は、命は決して独立・単独では成り立たないんです。何一つも。呼吸してますよ。空気が汚れたらどうする? 空気の中に、香りもない、色もない毒が回っていたらどうする? 死んじゃうでしょう。だからみんな一生懸命、空気を汚染しないようにしましょうと頑張っているなら、「ありがとう」と思わなきゃ。話にならんでしょうに。
われわれは寄生しますからね。生まれたときは、女性の体に。女性の体から生まれたわけじゃないんです。女性の体から卵子を外へ捨てるんです。男性の精子も外へ捨てるんです。捨てたものを二つ合わせたところで、それから強引に寄生するんですね。だから、肉体は寄生しているから、寄生されたほうは「あっち行け」と言う感じでね。体に蚊が止まったら何をするんですかね? とにかく叩いちゃうでしょう。
だから、母体に寄生した途端、結構体が攻撃しますよ、追い出そうと。それでも一つの細胞ががんこにしがみついて、母体にいるんですね。そこで体があらゆる攻撃をして、吐き気がするわ、調子が悪くなるわで、お医者さんに行ったら「妊娠しています」と言われるでしょう。
そう言われた途端、なんてありがたいことだ、なんておめでたいことだと、それから新たに母親が愛情を作るんです。その瞬間からは、流産する恐れがほとんど消えます。ちょっと具合が悪くなると、お医者さんに行って、なんとしてでも子供を守ってほしいということになるんですね。
だから、みなさん今、生きているでしょう。感謝しなきゃね。ま、それだけじゃないでしょう、生まれてからどれほど苦労するのか、子供のためにね。
母の躾がなかったら、われわれは何も知らなくて原始人でしょう。言葉の使い方やらお箸の使い方やら、なんでもかんでも教えられて、教えられて、大人になったんですね。母親だけじゃなくて、誰からも助けられて、助けられて、生きているんだから、そんなのは感謝しろと言うまでもないでしょう。感謝したんだからと言ってもそれが当たり前です。逆に、感謝しない人間は、生きる価値もないんです。
人生は借りばっかりですね。借りて、借りて、借りて、これが返せるもんかいと。もっと貸してくれと言っても、返せませんでしょう。
感謝しない人間と言うのは、借りまくっているのに、もっと貸してくれと言って、「返してくれる?」と聞かれたら「誰が返すもんかい」と言うような人ですよ。
もし感謝するこころが起きないならば、なるべく早くあの世に行ったほうがいいんです。この人間の社会ではね、ちょっと困ります。それ自体で極悪犯人なんですね。
だから感謝するというのは当たり前のことで、感謝しないのは犯罪なんです。
電車に乗ったら、どれほどの人々がそこで仕事して頑張っているのかと。
ただホームのことを考えても、微妙に計算されていて、危なくないようになっているでしょう。ホームを作る人々は、どれほど神経を使うのか。年取ってくると余計わかるでしょう。小さなどうったことない隙間であっても、人を助けてあげる気持ちが、人が事故を起こさないようにしたいという気持ちが入っているでしょう。
わたしたちの安全のためでしょう。
感謝するのは当たり前のことで、感謝する人間だと威張るなよと。そんなのはどうったことはないんだ。わたしは呼吸しているぞ、えらいだろう、というようなものですよ。
当たり前のことなのに、感謝しなさいとあえて言う羽目に張なるのは、どれほど間違った状況になっているのかということです。だから感謝そのものによって、何かご褒美ちょうだいと思ったら、けしからんでしょう。
インド文化、われわれの文化では、「ありがとう、ありがとう」とは言わないんです。これは日本人が誤解するし、気持ち悪がっちゃうんですね。親が子どもを殺すような社会の人々に言われたくないと思っちゃいますけど。誰とも仲良くできないわ。中国とトラブっちゃうわ、北朝鮮とトラブっちゃうわ、周りの国々に誰一人仲間がいないでしょう。東西南北を敵に回している人々が余計なことを言うなよ、と言いたいところなんですけど。
インド文化では、感謝しますが、「ありがとう、ありがとう」と形式的に口でごまかすことはしないんですね。インド文化の人々は、「ありがとう」と言っちゃうとチャラになっちゃうと思っています。お互い助け合って生きているんだから、永久的にチャラにならないという考えを持っています。ごちそうをもらって、「ありがとう」と言って帰ってしまえばチャラでしょう。そうじゃなくて、自分が食べさせてもらったように、今度は自分がほかの人に対して、「あんた、ご飯を食べていってください」と言います。かつてご飯を食べさせてくれたあの人にお返しするわけじゃなくて。
誰かにご飯を食べさせてもらったなら、自分も同じ生き方をするんです。誰かが困っていたら、助けてあげる。「どうして助けるのか?」と聞かれたら、「わたしもかつてほかの人に助けられたから」と。それがインド文化の伝統で、感謝の仕方なんです。「ありがとうございます」でチャラにしないんです。
それを日本人が誤解しますね。形で判断しようとするからね。中身をみなくてね。お辞儀の角度は何度ですかと。われわれは、「角度はいいから、目上の人に対する尊敬の念を抱きなさい」と言うんです。
形で判断しようとする文化では、形であらわさない文化のことをよくわからなくなります。ま、それはしようがないんですけど。
そういうところですね、日本の学者さんもね、「なんで、ありがとうと言う言葉を使わないのか。インド人というのは乱暴だ」と言っても、日本よりはどれほど歴史が古いんですかね。いい加減にしろよと言いたいんですけどね。日本は記録された歴史も、せいぜい二千年もないでしょう。インドは仏教が出来上がった国でしょう。仏教よりまさった哲学っていうのはいまだに生まれていないでしょう。
われわれは、乱暴な言葉で怒鳴ったりしますけど、そこには、「お互い協力しあうのが人間でしょう、それなのに君は」というセクションが前提として入っているんですね。
「ありがとう」を言わないんだけど、行儀が間違っちゃうとかなり厳しいんです。行儀作法はすごく厳しいですが、外からは見えませんね。
インドの歌番組を見て、インド人ていうのは誰でもすごく音楽的な才能があるし、学ばなくても体で知っているんですね。若者のコンテストがある場合は、テレビに出る人々はものすごい能力なんです。審査する人々は話にならないくらいとんでもない才能ある人なんですね。
コンテスト出場者が自分の歌を歌ったら、審査員がいろいろコメントするんですね。ある若者が歌い終わって、審査員の一人が「こうやって歌ってみたら」と別の歌い方を示すんです。すると今度は若者が同じように歌って、さらにアレンジしてみせる。偉い先生に直接教えてもらっても、負けるもんかと挑戦するんですね。それで終わってもありがとうも言わない。ただ、先生に近寄って足にサッとタッチして去っていくんです。それを見てわたしは、なんていい若者だろうと。きわめて礼儀正しい礼をして出ていくんです。
各文化はそれぞれ違うので、文化比較はあまりよくないですが、感謝は、するのは当たり前、しないのは極悪行為です。
(仏教には感謝の概念がない?(後編)に続きます)
関西定例冥想会 2010.11.03
http://www.voiceblog.jp/sandarepo/1266886.html よりメモしました。
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