(仏教には感謝の概念がない?(前編)から続きます)
それだけでは仏教の話は終わりませんよ。
生きることは苦であって、仕事も勉強も遊ぶことも、なんでもかんでも苦の連続で、最後に死ぬことも苦なんですね。長生きしたいなというのは、長く苦しみたいなという意味なんですね。俗世間で、人生が成功するというのはないんです。はじめは一つだった会社を十に増やしたというのは、苦しみが十倍になっただけ。倒産する恐れが十倍に増えたということです。損害、危険性、責任感も増えた。
自分の畑で野菜を作って食べているとは違います。そちらは倒産と言うのはないですね。畑に虫が入る可能性もありますよ。自分の畑で野菜を作ったならば、同時に虫を呼んだことにもなります。
そこで虫を殺そうと毒をかけると、自分も同時に汚染することになります。だから、どちらにしたってもダメやこれは、ということでしょう。
じゃあ農薬をやめましょうとやめてみると、虫が食ってしまって自分に食べるものがない。やっぱりまた農薬をかけるぞとなると、あなたも毒を食いなさいという状態になる。ただ、倒産ほどの危険はないですが、その人が店でも始めたらより危険が増えます。
観察してみると、人生は「苦」以外ないんだとわかります。苦しみがあるんだから生きているんです。
おなかがすくことは苦しんだからご飯を食べているんです。座っていることが苦しんだから立つんです。立ちっぱなしは苦しんだから運動したりするんです。呼吸も苦しみがあるから呼吸しているんです。
苦しみのおかげで生きています。苦しみがなかったら人は死んじゃいます。苦しみがなかったら仕事もしない、結婚もしない、子供も作らない、料理もしない、畑も作らないんです。
川に堤防も作りませんよ、苦しみがなかったら。耐震性の家も作りませんよ。すべて苦しみが作り出しているんです。
では、感謝して生きるってどういう意味? はい、クイズです。
人生は苦だったらありがたくないでしょう。苦しいのに感謝しながら生き続ける馬鹿がいるんですか。だから、智慧からみれば、感謝するものじゃなくて命っていうのは捨てるべきものなんです。
その両方があります。
ご飯を作ってくれてありがとうと言っても、ご飯食べたんだから長生きしちゃうでしょう。これ、苦しいでしょう。わたしの人生を一週間長くして、その分苦しませてくれたということになっちゃうんです。
では、末期状態の人のことを考えてください。もう何も自由じゃないし、体は極限に苦しいし、息もできないし、食べられないし。それで延命装置を付けるでしょう。その人が医者に「先生、ありがとうございます」と言うと、どんな意味ですか? わたしを死なせないで、苦しませてくれてありがとうございます、という意味でしょう。
食べられないということは、消化器官が故障してしまったんですね。そこへ管から栄養を入れても、苦しみはなくならない。どれほど苦しむのかと。
生きることは苦であるというスタンスでみると、感謝ではなくて、解脱しようではないかということになります。生に執着しないで、執着を捨てましょう、と。社会人として、人間として感謝するというのは当たり前のこと。呼吸することと同じことです。
生を正当化するか、苦でみるか、というスタンス二つなんですね。生を正当化するなら、呼吸と同じく、感謝する義務が入っています。生を苦でみるならば、解脱することが道徳になります。感謝することが非道徳になります。生に執着するんだから、道が間違っているんです。
その二つを合わせたら仏教なんです。
感謝したらダメで、感謝しなきゃダメの二つなんです。
ちょっと難しく感じる可能性はあります。
一応、皆様は一般の次元で考えているんだから、感謝することは当たり前ですね。
遠慮したり、ちょっと恥ずかしくてできない、というのはダメですね。
(おわり)
関西定例冥想会 2010.11.03
http://www.voiceblog.jp/sandarepo/1266886.html よりメモしました。
「仏教の感謝とは」シリーズ全二回
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