質問
「仏教の祈りと冥想の『対象』は何なのでしょうか」
回答(スマナサーラ長老談)
仏教の祈りと冥想の対象は「自分」です。
自分がいるのならば、そのほかは「他」でしょう。
相対的に成り立ちます。自分と他人は。
結局、わたしたちは「自分がいるんだ」というスタンスで生きていますよ。
だから自分がいるという錯覚は最初から入っています。赤ちゃんも、手や足を触られると「自分、自分」という錯覚が生まれてくるんです。だから赤ちゃんには「なにか感覚が生まれた」という程度では終わらないんです。
われわれには、そういうふうにプレインストールで、「自分」という気持ちが入っているんですね。そうすると「他」が相対的にあらわれています。
そこで、自分というものは自分でしか判断しないから、その自分を消すためにする冥想が慈悲の冥想です。
ヴィパッサナー冥想は別にあります。
自分だけじゃなくて、たとえば、観念的な言葉ですが、誰か自分に関連ある人が幸せになると楽しいでしょう?
もし一切生命が幸せだったら、幸せという言葉は消えるでしょう?
言葉自体も消えていくんです。
そこで、「わたしが幸せでありますように」というと、よく理解できるんですね。経験できる。
「じゃあ、親しい生命が幸せでありますように」というと、ちょっと難しいんだけど、まあ、いいでしょう、という気持ちになる。
さらに念じると、「当たり前だ、わたしと親しい生命も幸せでいることは」と幸せが拡大して自分が薄くなるんです。親しい生命に限って。
(質問者談)
「そのように冥想していて、なぜ世尊に帰依するのかわかりません。
自らが仏(ほとけ)ならば、帰依する必要も、経を唱える必要も、偶像崇拝する必要もないのではありませんか? 世尊も、そういうことは一切行わずに覚ったのですから」
(スマナサーラ長老談)
お釈迦様は師匠ですよ。
あなたが一人で実行できるならば、お釈迦様はいりません。
個人の考え方次第です。あなたが偶像と思っているならば、偶像です。
他の方々は、お釈迦様が師匠だから、ただお釈迦様の像の前で手を合わせるだけです。偶像とは思わない。それだけの話でしょう。
別にわれわれは、仏像が何かやってくれると思っていません。
ただ単に、たとえば家族写真のように飾っているようなものです。いくら仏像を拝んだからといって、覚れるわけはありません。それはみんな知っています。
一部のイスラム人が大事な文化の仏像を壊して、壊して……。インド・スリランカでは歴史的な仏像をほとんど壊しています。仏像の手首を壊す。そうすると魂が抜けるんだと、仏像を破壊するイスラム教徒は言いますが、それこそが偶像信仰でしょう。
インドの傑作の仏像も、手首が破壊されています。
偶像崇拝というのはそういうことです。
イスラム人の悩みを聞くサイトで、ある人が誤ってコーランを落としてしまったそうです。それで悩んで仕方がないのですが、どうすればいいのですか、という質問でした。それにイスラム教の偉い人が答えて、「あなたは意図的にコーランを落としたのではないのだから、罪には当たりません」と。
あれが偶像崇拝です。
われわれは偶像崇拝をしているわけではありません。
でもいっぱい仏像がある。いっぱい作る。立像、涅槃像。われわれは遊んでいるんです。
(質問者談)「しかし、仏像を作ることは禁止されていましたよね?」
(スマナサーラ長老談)
いいえ、禁止されていません。
(質問者談)「足跡の像は……」
(スマナサーラ長老談)
お釈迦様は真理に達した方だから、形で表しちゃうとお釈迦様に申し訳ないと当時の人々は思って、足跡、法輪、菩提樹などであらわしていたんですね。
それから芸術能力が出てくると、じゃあ作ってみようか、ということになっちゃって、どんどん立派な仏像ができるようになってしまった。
われわれは遊んでいますよ。
芸術的に。これは楽しみです。
見て楽しいでしょう? それを「仏像は嫌だ」と思ったら、その人はそれでよろしいんですけど。
偶像崇拝に対して、カトリック教はそんなに厳しくないんだけど、プロテスタントは厳しいんですね。しかし、自分の国ではみんな仲良くやっています。お互いに冗談を言いながらね。
神が遍在するという考え方がありますが、遍在するんだったら、どこを見て礼をしてもいいでしょう。
場所によっては、(仏教ではありませんが)落ちてきた隕石を祀って祈っているところもあります。
それも偶像崇拝ですよ。
まず、質問者の方は仏教が偶像崇拝をしているというけれど、実際にどのように行っているのかと調べなくてはね。
わたしもいろいろとテキストを読んでいく中で、でっかいお寺を作ったり仏像を作ったり、こういうのは偶像崇拝ではないかと思いましたが、よくよく調べるとこれはお布施なんですね。そのためにやったことなんですね。
わたしの経験では、仏像の力で何とかなるということで仏像を作ったというのはほとんどありません。
それはちゃんと調べてみて、あなたが言っている通りのことがあれば、それはおかしいでしょうと言えるんですね。そんなことではなくて、こころ清らかにすることがブッダの道ではないかと。なにをやっているのか、と言えますよ。
たとえばね、仏教徒として仏像を拝むことしかしないなら、「なんだこれは」「自分の生き方を戒めないで、仏像を拝むのはただの迷信でしょう」と言えます。
歴史的に何かが残ると、そこに文化が現れます。
それはどうにもならないことです。文化というのは。
仏教というのは歴史が長いからね。芸術、音楽、いろんなものが現れてきます。
ストーリー、物語、いろいろと現れてきます。それは文化ですね。
しかし、文化は宗教ではありません。
文化は変わります。たとえば、インドで作った仏像とタイの仏像、スリランカの仏像は違う。文化だから。
お釈迦様はどんな顔でしたかとは、だれにもわかりません。こちらにある仏像にしても、お釈迦様の顔ではありません。この仏像を作った人は、お釈迦様の顔を見たことがありませんから。
(終わり)
東京 法話と実践会 2017.04.23 よりメモしました。
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